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No.450 今年の指導医養成講習会で

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 10月に、ある病院の指導医養成講習会のお手伝いをしました。
 最初のグループワークで「社会が求める医師の基本的臨床能力」についてKJ法でまとめてもらい、終わりの方のグループワークでは「2年間でどのような医師を育てたいか」についてやはりKJ法でまとめてもらいました。
 一部の参加者が気づいたように、これはほとんど同じ内容です。でも、前者は社会=ふつうに暮らす人が求める医療であり、後者は、自分たちはどんな医療を提供しようと思うのかという「決意表明」です。「育てる」ためには自分がロールモデルにならなければなりません。だから後の作業は、参加者(これから指導医になる人たち)が自分の医師としての在り方を見つめ直してもらうことを(裏で)めざしています。

 両者を比べてみたところ、「共感性」「コミュニケーション」「寄り添う」といった言葉が、後の方で増えていました。
 最初のグループワークで「共感性」「コミュニケーション」「寄り添う」という綺麗な(無難な)言葉が出てきたのを見た時には、こうした綺麗な言葉を挙げて上手にまとめる(こなす)」ことに習熟しているのかなと、少し「意地悪く」見てしまいました 1)

 具体的に「共感とはどのようにして身につけることができるのか」「共感するためにはどのように行動すればよいのか」「寄り添うとは、どのような行動なのか」「寄り添う資格が自分にはあるだろうか」といったことに思いを巡らしている雰囲気はあまり感じられず、コミュニケーションについて「聴くこと」があまり書かれていませんでした。
 表面的な言葉で「満足」しているのかな、そこまで考えていないのかな、議論する時間がなかったのかな、考える対象が大きすぎるし議論すると意見の対立が出てくるから(意見が合わなくて議論することを回避しがちです)からなのかな、などと考えてしまいました。
 でも、20年前なら「共感性」「寄り添う」などという言葉を書く人は、もっとずっと少なかったと思います。そして講習の後半でこうした言葉が増えていったことには、これからの医療への希望があると思い直しました。中身を検討し考えを深めていくという課題がそこにはありますが、こうした言葉がそのきっかけになってくれたらと祈るような思いで発表を聞いていました。

 講習会を主催する側にとっては、「共感」や「コミュニケーション」という言葉が出てきていることに感心している場合ではありません。
 「共感」や「コミュニケーション」が大切であり、まだ十分ではないという参加者の思いがそこにあるということは、「指導が足らない」「これからの教育をどのようにすればよいか考えよ」とボールを参加者から投げ返されていることだと感じました。
 指導医養成講習会は、指導医を指導する医者のための講習会なのだとあらためて思いました。教育技法やカリキュラム作成・評価表作成を指導することなど、講習会にとっては些末なことでしかないと思います。(2025.12)

1) 講習会の初めのほうで出てきた「患者の話を聞いてあげる」「医療チームをけん引するのは医師」などの言葉、KJ法で「〈説明〉の項目の中にコミュニケーションが入っていた」ことなどに私は少し引いてしまいましたが、グループワークが進むにつれてそのような言葉も少なくなってきました。


日下 隼人

コミュニケーションのススメ 日下 隼人 コラム

● 本コラムの内容は、著者 日下 隼人の個人的な意見であり、マイインフォームド・コンセントの法人としての考え、および活動に参加しておられる模擬患者さんたちのお考えとは関係ありません。

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