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No.352 明日枯れる花にも水をあげる

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 このところ重症コロナ感染症から生還した人の治療中の映像がテレビで放映されています。意識がなく、管がいっぱい繋がれ、人工呼吸器(生命維持装置とは言われない)が装着されているのですが、「悲惨だ」とは言われません(「良かったね」「医療は素晴らしい」と言われます)。終末期医療について「管が繋がれ、意識がないのに生かされ続ける悲惨な終末期」「苦しいのに器械が外せなくなる」などと言われますが、その線引きは都合よく変えられるということが、明らかになります。同じ治療を受けて亡くなられた1000人以上の人たちについては「悲惨な終末期」だということになるのでしょうか。
 「病院での死が穏やかなものでない」といった言葉をしばしば耳にしますが、その言葉は病院で働く医療者を侮辱してもいるのです。いろいろな制約の下で「自宅以上のケアを提供したい」「できるだけ穏やかなものにしたい」と頑張っている医療者はいっぱいいます。その思いは、「在宅こそ良い医療だ」という声(幻想)にかき消されがちです。最近「(最後までなんでも)やりつくす医療」と「精一杯尽くす医療」とを対比させている文章に出会いました。「穏やかな在宅死」対「悲惨な病院死」という対比も同じことです。このような医療の現場を単純化してしまった二項対立的議論は、危ういと思います。「精一杯尽くす医療をした」と医療者と家族との「納得」があれば、それが、福生病院の人工透析の中止、障害者や高齢者の治療中止(津久井やまゆり園の加害者の論理)、高齢の重症コロナ感染症患者の治療中止 1)、 ALS患者への薬物注入など、本来ならばできることがまだあるのにそれを行わない切捨て医療を可能にする「根拠」となりえます。
 このような事件が起きると、必ず「安楽死の法制化を」2) という人たちがうごめきだすのですが、この人たちは「何のために」「誰のために」言っているのでしょうか。「自分なら、こんな状態では生きていられない」かどうかは、元気な時にはわかりません。たとえそんな状態になっても「生きていたい」と思うか否かはその時自分が置かれた環境によります。「もっと前から日常生活のなかで場や関係性」(松嶋健「イタリアにおける医療崩壊と精神保健」現代思想「コロナと暮らし」48-10 2020)に依るので、そのこと抜きには考えられません。「身内が同じような状態で見ていてかわいそうだった」のは、見ている人の心の姿勢です。「本人が『死にたい』とばかり言っていた」と言う人は、その人をそのような状態に追い込むことに自分も一役買っていたとは思っていないでしょう。「ゾンビのような姿で生きているだけ」と言われるような状況があることは確かですが、それでも「生きている」ことより死を上位に置くことはおかしい。「この状態はゾンビだ」という境界線などどのようにずらすことも可能で、その領域は広くなりえるのです。どのような状態でも生きていてくれることが嬉しい人はいます。それ以前に、人は「どのような状態でも生きていたい」というところから考えたい。「他人のため」に死を軽々しく口にする人のことは信じないでおくほうが無難です 3) 4)
 「(最後までなんでも)やりつくしさえすればよい」と思考停止している医療者は、ほとんどいないでしょう。「精一杯尽くす医療」と「(最後までなんでも)やりつくす医療」とは重なり合っている部分のほうがずっと大きく、それを無理に引き離しての議論は「理念型」によって議論を深めることではありませんし、医療の現状と切り結ぶこともできないと思います。(2020.08.15)

1) れいわ新選組から出馬予定であったO氏は「高齢者を長生きさせるのかっていうのは、我々真剣に考える必要があると思いますよ。介護の分野でも医療の分野でも、これだけ人口の比率がおかしくなってる状況の中で、特に上の方の世代があまりに多くなってる状況で、高齢者を・・・死なせちゃいけないと、長生きさせなきゃいけないっていう、そういう政策を取ってると、これ多くのお金の話じゃなくて、もちろん医療費とか介護料って金はすごくかかるんでしょうけど、これは若者たちの時間の使い方の問題になってきます。」「生命選別しないと駄目だと思いますよ、はっきり言いますけど。その選択が政治なんですよ。」「だからそういったことも含めて、順番として、その選択するんであれば、もちろん、高齢の方から逝ってもらうしかないです」と公言したことで除名されました(あたりまえだ!)。「邪魔なもの」「目障りなもの」を廃棄するだけならば、それは政治の名に値しません。「政治とは、明日枯れる花にも水をあげることだ」と大平正芳元首相は言ったそうですが、O氏の「政治」との違いに茫然とするばかりです。

2) 「世間」の同調圧力の強いこの国では、安楽死が認められれば「どうしてあなたは選ばないの」「そんなにしてまで生きてみんなに迷惑をかけたいの」と責められることになりかねません。死の選択権・自己決定権は、この国では「法制化」などされないほうが保障されるのかもしれません。そして、ALSにもジェンダーが影を落とします。「ALSで呼吸器をつけて介護で生存するかどうかを選ぶ時に、女性は圧倒的に呼吸器つけずに死を選ぶ(呼吸器をつけるのは男性に多い)。それは日本では女性に介護が押し付けられており、女性が寝たきりになると介護してくれる人がいないから。迷惑かけたくないと死を選ぶ女性も多い」(立岩真也『ALS―不動の身体と息する機械』医学書院2004)。
 この患者さんとメールでお互いに自分自身の安楽死についての希望を語り合っていた人がいるのですが、相手には生きていてほしいと願っていた(「自分のことは棚に上げて 生きていてほしいとつらさを強要するように願ってしまう」)とのことです。その思いの深淵を見ることなしに「安楽死」を語るべきではないと思います。

3) 「どんなに年寄りになっていたとしても、人はその直前まで、到来しつつあるものが死であるということを受け容れることができないのではないかと思うのです。それなのに最近は、「終活(人生会議)をせよ」と、若くて元気な人々が老人たちに迫るようになっています。・・・・人生とは、その本質において中断であり、あるいは不発なのではないでしょうか」船木亨『死の病と生の哲学』ちくま新書2020(著者は大腸がんで闘病中の哲学者)

4) 「生命倫理を研究している人たちは、英米の『無駄な延命』といった考え方を導入することになんであんなに張り切っているのか」「西洋由来の倫理学の方向を向いていて、日本で実際に起こっている医療問題を理解して解決法を探るという発想には乏しい」「英米圏の患者さんこそ、生きることを肯定したくても、できないんじゃないか。重症患者の生きる権利が剥奪されているんじゃないか・・・。社会や家族の負担にならないためには、弱者は生存を諦めるしかないということなのに、過剰な医療を拒否する『患者の権利』などとうたわれてしまっている。こういう捻じ曲げられた死の自己決定・・・・あたかも日本が欧米に後れを取っているような焦燥感が・・・日本の生命倫理学や医療倫理学の研究者の間で再燃しているように思います」川口有美子「討議 トリアージが引く分割線」(美馬達哉との対談)現代思想「コロナと暮らし」48-10 2020
 生命倫理学が「死に方」や「死の選択(生の否定)」を語り続けている限り、うさん臭さが付きまといます。ある倫理関係の集まりで、その第一回の会合からDNARの中身を「内容のあるもの(具体的なもの)」にするかということばかりが語られているのに私は戸惑い、その後この会合には参加していません。「内容のあるもの」にすべきは、死に方であるよりは人生です。医療者にその手伝いをしにくくさせている制約を解除していく方途を求めることが倫理学の課題なのに、と思います。
 「苦しみから逃れるためにいかに楽に死ぬかという議論をするのではなく、支えあっていかに楽に楽しく生きるかという議論を社会の皆でしたいし、しなければならない。」(日本自立生活センター 大藪光俊さん)
 「コロナ危機を契機に高齢者障害者への医療資源の配分を縮小しようとする動きもあり、どさくさに紛れて、現代の姥捨て山、アウシュビッツができてしまう恐れもあります。安楽死合法化など、この時期に話し合うなんてとんでもないし、緩和ケアが必要と言えば、治療の差し控えや中止が行き過ぎることも十分あり得るので、ホントにホントに注意しないといけません。とにかく、暮らしを守ることを真っ先に考えて、その中で治療のことを考える。」(川口有美子さんFacebookから)

〈お知らせ〉
このたび、篠原出版新社から「温かい医療をめざして  サービスを支えるコミュニケーション」を上梓いたしました。この本は、このコラムから生まれました。


日下 隼人

コミュニケーションのススメ 日下 隼人 コラム

● 本コラムの内容は、著者 日下 隼人の個人的な意見であり、マイインフォームド・コンセントの法人としての考え、および活動に参加しておられる模擬患者さんたちのお考えとは関係ありません。

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