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No.298 Shared Decision-makingと言うけれど

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 医学に限らず学問的研究は常に新しいことを見つけだしていくことが仕事です。なにか提言する、何かについて語るためには、新しいことを言わなければならないと思っている人は少なくありません。研究に関わる人にはその習性が身についています。哲学や思想も同じで、新しい言葉(概念)が次々出されてきます。私たちはたえず新しい言葉(概念・知見)に追い立てられているのです。
 新しい言葉の多くは横文字の言葉です。この国では、新しいことはいつも海の向こうからやってきて、そしてその言葉を使うことでそれまでの体制を揺り動かそうとする人が「知識人」「先生」と言われます。「黒船来航」「遣唐使・遣隋使」の流れは現在も変わらず、きっとこの先も続くでしょう。国粋主義はそれに反発する形を取らざるをえないので、これまでもこれからも歪み続けるしかありません。
 揺り動かされた体制はなんとか平衡を保とうとしますから、その「新しい」概念の中でこれまでの体制に都合よい部分は取り入れ、都合悪い部分は無かったことにするか改変してしまいます 1)。新しいものを提唱する人にとって、その新しいものは自分が優位にたつための道具でしかないと思わされることが少なくありません。医学教育の世界ももちろん、その陥穽から免れていません。医療を批判する人たちも、「欧米では」というところから話し出すことが少なくありません。
 Shared Decision-making(共有意思決定)という言葉が最近語られるようになりましたが、それを説明する文章に出会いました。
 「確実性が低い選択をするとき、その不確実性を共有するのがShared Decision-makingです。スタンダードな治療(医療)があるとき、Shared Decision-makingは一般的に不要です。Shared Decision-makingはどこが終着点になるのか医師にも患者にも分からないのが特徴です。(結核の)抗生剤治療を拒む保護者の姿勢は、子どもの生存の権利を大きく侵害しています。子どもの生存の権利を守るためには、抗生剤治療が否定される結論になっては決していけません。このケースで行われるべきなのは、インフォームド・コンセントです」とありました(このように説明している英文文献を踏まえているようです)。でも、これではインフォームド・コンセントは医療者の「押しつけ」「患者の説得」の位置に貶められてしまっています 2)。その結果として、せっかく紹介されたShared Decision-makingの意義が低くなってしまいます。
 Decision、つまりその人の人生の選び取りは、いつだって患者さんの状況に応じて患者さんや家族と医療者とが話し合い、みんなで手探りしながら求めていくものです。話し合いはそれまでの患者さん・家族と医療者の人間関係に応じたものになりますから、人間関係が良くなければ患者さんにとって最善の治療方針を選ぶことができません。どのようにすればよいのか、迷うことは少なくありません。でも、信頼し合っている患者さん・家族と医療者とが忌憚なく話しあった結果の結論は、どのようなものであれ倫理的な結論であると言えます 3)
 優劣つけがたい選択肢の一つを選ばなければならない場合や不確実な治療を選ばなければならない場合、終着点の不明な治療を選ぶ場合、「倫理的」な課題が大きく関わっている場合は、臨床現場では必ずしも多いわけではありません。そのようなことだけに注目していると「臨床倫理」は見失われてしまいます。どんなに「ささやかなこと」と思われるものであっても、どんなに確立された不動のスタンダードな治療を勧める場合でも、信頼し合っている患者さん・家族と医療者との忌憚ない話しあいがなければ、それは倫理的ではありません。こちらはShared Decision-making、こちらは「インフォームド・コンセント」(「方針の押しつけ」となりうるものとしてカッコ付きです)というのでは、その境界は医療者や周囲の人の判断・思惑に左右される恣意的なものになってしまいます。「Shared Decision-makingとはインフォームド・コンセントのことである」と言えばよいだけのことなのだと思います 4)。(2018.05)

1)  「日本人には『お前の考えはまちがっている』というよりは、『お前の考えは古い』といったほうが、こたえるのであります。そのかわり、もともと多元的思考法の持ち主でありますから、その新しいものもすぐに古くなり、のりかえを続けることになります。熱しやすく、さめやすいとも言えます。」森三樹三郎「中国文化と日本文化」人文書院1988
 「古い奴だとお思いでしょうが、古い奴こそ新しいものを欲しがるもんでございます。」「傷だらけの人生」歌:鶴田浩二 作詞:藤田まさと 作曲:吉田正 1970年

2) アドバンス・ケア・プラニングACPなどは、多くの人にとってわけのわからないまま保険診療に取り入れられようとしています(医療者の中に、真摯に熱心に取り組んでいる人はもちろんおられます)。その説明に「アドバンス・ケア・プランニングは、インフォームド・コンセントが同意書をとることだけでないように、アドバンスディレクティブ(事前指示)の文書を作成することのみではない」とありましたから、きっと「事前指示の文書作成」に終始してしまうのでしょう。

3) 「道徳とは『私たちはAをすべきか、Bをすべきか』といった選択の瞬間、あるいは問いを立てる瞬間に問題になるような何かではない。むしろ、その瞬間にいたるまでの、日々をどう生きるかということが道徳の問題である。・・・(母親を介護施設に預けるか悩んでいる娘の事例)・・・この選択の瞬間だけに注目して議論を行うような倫理は、そもそも道徳の本性を捉え損なっている。むしろ、その瞬間にはほとんどのことは終わっている。重要なことは、そのような状況に至るまでの日々を彼女がどう過ごしてきたかである・・・(味方の倫理学)。味方の倫理においては、重要なことは選択そのもの、あるいは何を選択するかということではなく、選択に至るまでの日々の生という連続的なプロセスであり、そのプロセスのなかできちんと善を見つめようとすることが、道徳的に優れたあり方を生む。アイリス・マードック「善の至高性」九州大学出版会1992
 「コンテクストを離れて客観的に正しい答えは無いが、選択が行われる特定のコンテクストやその選択に照らして正しい答えは存在する(コンテクスト相対主義)」片瀬一男「道徳意識の社会心理学」北樹出版2002
 医療倫理というのは生死を振り分けるような極限的な場面でのことではないのだということを、野崎泰伸は、「『究極の選択』に追い込まれた時にせざるを得ない『決定』とは『処世術』なのであって、『倫理』ではない。倫理とはもっと手前において思考されるべきものなのである。・・・・そのような場面で取ってしまう/取らざるをえない行為を倫理とよび正当化しようとするのは道徳的詐術である」と言います。「生を肯定する倫理へ」白澤社2011。

4) 件の紹介文では、小児の場合は保護者との合意であるので、すべてShared Decision-makingであるべきだと書かれていましたが、小児と成人の間の線引きも恣意的になりがちです。あるときは「子どもなんだから」と言われ、別の場面では「もう大人なんだから」と言われた経験を持っていない人は稀でしょう。保護者と本人を分けることも簡単なことではありません。線引きは人と人との間を分断することであり、理念を道具化してしまいます。

コミュニケーションのススメ 日下 隼人 コラム

● 本コラムの内容は、著者 日下 隼人の個人的な意見であり、マイインフォームド・コンセントの法人としての考え、および活動に参加しておられる模擬患者さんたちのお考えとは関係ありません。

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