No.323 「正気の時」
コラム目次へ 最近ある公立病院で「患者の意思に反して人工透析が中止された」という報道がありました。事態については報道でしか知り得ないのですが、その範囲内でいくつか気になったことを。
「患者の意思」について、担当医は「正気な時の(治療中止という女性の)固い意思に重きを置いた」と言っています。病院長は「多職種で対応し、家族を含めた話し合いが行われ、その記録も残されている。密室的環境で独断専行した事実はございません」と言い、「いろいろな選択肢を与え、本人が(透析治療の中止を)選んだうえで意思を複数回確認しており、適正な医療だと考えている。選択肢を呈示することは必要だ、そのほうが倫理的だ」と言っています。
けれども病気になった時の患者さんを、「正気の時」と「正気でない時」に分けて考えることは可能でしょうか 1) 2)。病気になった時から患者さんは「正気ではない」のです。自分の身体についての理解しきれない情報の嵐と、医療・保健システムについての限られた情報の中で、ある種の高揚した精神状態で判断・選択をしているのです 3)。「死にたい(死に至る選択を選びたい)」と言いたくなるほどの身体の状況があり、その状況の中での選択を「正気」だと言ってしまって良いのでしょうか。自分の選択した結果の状態として、予想もできなかった苦しさに耐え切れず選択の変更を希望することを「正気でない」判断と言うことが出来るでしょうか。
選択肢を提示することは、それだけではしばしば反倫理的でしかありません。倫理は、医療者が患者さんと一緒に悩みながら選び取り、患者さんの「右往左往」とつきあう医療者の姿勢の中にしか生きません。いったん選んだ(選ばせた)ことを遵守するだけのことなら、それは倫理とは関係ないと思います。選択肢の提示は、いつでもその選択を変更できること、そして毎日のように選択を変更してもていねいにつきあってくれるという保障のないところでは、倫理的ではありません。「ころころ変えられてはつきあっていられない」というような人(ツィッターでそう書いている人がいた)には、選択肢を提示する資格は無いと思います 4)。
「透析治療を受けない権利を患者に認めるべきだ」と受持医は言っているようですが、死と生の選択肢が並列して呈示されるのはおかしくはないでしょうか。「生きるという選択肢」と「生を廃棄する選択肢」は並立するでしょうか。「死の選択肢」を呈示することは「貴方は生きる価値がない」「貴方を『生かしていく』医療をこの病院では出来ない」ということなのに、そこに「患者の権利」「死の希望の尊重」という言葉が繋ぎ合わされるのは危うくないでしょうか。「選択したのは患者だ」と医師が言うのは、責任逃れでしかありません。最低限でも、「死の希望」にはできるだけ慎重に、「生きたい」という希望はいつでもただちにそのまま受け入れるということでなければ、選択肢として並びたたないのではないでしょうか 5)。
「家族を含めた話し合い」が行われていれば、それでよいのでしょうか。選択肢の呈示にしてもそうですが、ここでは倫理が手続きの問題としてしか語られていません。こうした「話し合い」には多かれ少なかれ病院の方針を強いる力が働きます 6) 7)。少なくとも院長たちの言葉を聞く限り、その可能性は少なくないと思います。患者や家族は話されていることを理解できていたのでしょうか。
病院長や担当医が透析中止の根拠として、「「意識がなく、意思表示が全くできない患者がいる。胃ろうや人工呼吸器は生命的には永らえる。医療費もそれなりに発生するが、それを是とするかどうかだ」「透析治療を含め、どういう状況下でも命を永らえることが倫理的に正しいのかを考えるきっかけにしてほしい」「十分な意思確認がないまま透析治療が導入され、無益で偏った延命措置で患者が苦しんでいる。治療を受けない権利を認めるべきだ」と言っています。「語るに落ちる」とはこのようなことを言うのでしょうか。この「目の高さ」はどこから来るのでしょう。そのような事態に自分たちが加担しているという「恥じらい」が感じられないのは寂しい限りです。
当の患者さんや遺された人の気持ちはどうなっているのでしょうか。無念の思いを理屈で説き伏せようとしてもうまくいかないのです。医者はしばしばそれを得々と行って、益々溝を広げてしまいます 8)。
私が「立派な死」「穏やかな死」といった「美談」9) から医療を語りたくないのは、とても臆病で弱虫な自分はこの先も何かあるごとにうろたえ右往左往してしまうだろう、絶対に立派な死に方はできないだろうということが分かっているので、そのような「権利」を保障してくれないシステムには賛同しないでおきたいからなのです。(2019.05)
1) 「自己決定の尊重という、それ自体、重要な理念は、90年代以降のリベラリズムの大はしゃぎの中で、もっぱら人々を分断し、私的なものに退却させるためだけに動員されている。そこで問われるのは、他者の自己決定を尊重し、また実現するために自分に何ができるか、ではない。」市野川容孝『社会』岩波書店2006
「自己決定(権利)や自律をふりかざすような生命倫理(学)は、ある意味で、近代思想のもっとも表面的な部分での申し子とも言える。」安藤泰至「上原專祿の医療・宗教批判とその射程」『「いのちの思想」を掘り起こす』岩波書店2011所収
「人間が自らを自由であると思っているのは、〈すなわち彼らが自分は自由意志をもってあることをなしあるいはなさざることができると思っているのは〉誤っている。そしてそうした誤った意見は、彼らがただ彼らの行動は意識するが彼らをそれへ決定する諸要因はこれを知らないということにのみ存するのである。だから彼らの自由の観念なるものは彼らが自らの行動の原因を知らないということにあるのである。」(スピノザ『エチカ』第二部定理35備考)
2) 「本日、66歳の検診で肺癌がみつかり手術した患者さんが術後2週でこられました(当方でCTをとって肺癌疑いで基幹病院に手術依頼した)。肺癌はadenoでmetaなかった。抗がん剤を使うかどうかは本人が決めなさいと説明をうけたので、抗がん剤を使ったほうがよいかを私に聞きにこられたのです」(あるメーリングリストでの医師の言葉)。これは倫理ではなく「見捨て」である。
3) 自分が重い病気であることを説明され、あるいは、自分の生死にかかわることを説明され、医師や看護師に取り囲まれる中で選択を迫られる状況に置かれた人は、ある種の催眠状態・マインドコントロール状態の中に置かれ、いかほどか「高揚した」精神状態で「選択」をしていることも少なくないのではないだろうか。だからこそ「説明」と「同意」の間の時間を長く取るほうが良いと言われるのだが、この精神状態は場合によっては病が終わる時まで続く。「平静の心」に落ち着くには長い時間、丁寧な説明のくりかえし、そして何よりも医療者との信頼関係が欠かせない。簡単に「正気の時」と言ってほしくない。
4) 「治療を受けるも受けないも、患者の自由。さらに心変わりも患者の自由! これぞ、患者中心の医療。医療に求めてきたものではないのだろうか。医療者がガイドライン通りの治療をしなければならないとなれば、患者は受けたくない治療を受け続けなければならなくなる。ようやくここまで進んできた患者中心の医療、患者の権利はどうなるのか。・・・家族の心情への配慮はもちろん大切だが、『本人の意思決定能力を評価・支援せず、安易に家族の意向に従うことは倫理に反する』ことも再確認しておきたい」(あるサイトから)。この粗雑な、突き放した物言いで倫理は語れないし、「安易に家族の意向に従う」と書いてしまう傲慢さにも私は馴染めない。こんな言い方で「患者中心の医療」は語れない。「自己決定」という言葉の下に、家族からさえ切り離され(家族の「勝手な」希望からさえ切り離され)、患者は全き孤独の中に置かれる。「現代化された権力は、人びとの自由を叩き壊すわけではなく、逆に『個人の自由と責任』を大義に掲げ、そして人々を剥き出しのまま世界に放り出すのである。」(佐藤泉 論座2008.6) 実際には、この国の精神的風土では(たぶんどの国でも)人はそうした孤独に耐えられないので、自ら共同性に取り込まれ、周囲への気遣いと世の大勢に沿った選択をすることになる。
「自立した個人による自己決定」=インフォームド・コンセントは、これまでの自分の人間関係をすべて解体する可能性や国家(社会、世間)の進める方向と一人ででも全面的に対決する可能性を覚悟するところにしか存在しえない。だが病むことは周囲へ「依存」することなしには耐えがたいことなので、そのような途を選ぶことは現実には不可能である。自己決定を尊重すると言う医療者も、そうした対決を支援することまで覚悟しているとはとても思えない。
5) 「我々の身体の存在を排除する観念は我々の精神の中に存在することができない。むしろそうした観念は我々の精神と相反するものである」(スピノザ『エチカ』第三部 定理10)
人は自分に誇りが持てなければ希望が持てない。希望が持てなければ誇りが持てない。「死ぬ権利」を選ぶことによってしか人としての「誇り」が持てないとしたら、その状況がおかしいのではないのだろうか。
6) ルイ・アルチュセールの指摘以来、Subjectという言葉には「主体」と「臣下」という二重の意味があることについては、すでに人口に膾炙していると思う。「権力は、個人を、『管理や従属によって他者に従っている臣下』であると同時に『自意識や自己認識によって自分自身の自己同一性に繋ぎ止められている主体』である者として構成するのであり、・・・自由と服従という両義性が問題なのではなく、自己及び他者への二重の従属化が問題であるということ」(慎改康之『フーコーの言説』筑摩書房2019)
7) 「告知のあと迷い悩む過程で、言葉を失い、医師、看護婦にこび、周囲に明るい顔をみせるようになりました。死のふちに立ち、身を守る為に取った防衛の本能かもしれません。最善の治療、看護をしてほしい、やさしくしてほしい、と。」(朝日新聞・大阪版 1996年2月6日夕刊投書) このような人と「話し合って」いることに医療者は気づかない。あるいは、つけこんでいる。
8) 「感情はそれと反対のかつそれよりも強力な感情によってでなくては抑制されることも除去されることもできない」(スピノザ『エチカ』第四部 定理7)
9) 「立派な死」「穏やかな死」「美談」といったものをつなげて終末期を語ることは、鶴見俊輔が言う「稜線によって思想史をとらえる」ことと通じている。もちろん鶴見は、このような捉え方を肯定的に評価していない。稜線を見上げる「山間」を辿る思想を求めたい。
註) その後、病院は「透析中止を提案した事実はない」と表現を変えた。そして、外科医が「透析中止は死を意味すると説明したが、女性の意思は変わらなかった」とも言っている。だが、このように責任が患者に「押し付けられる」のならば、「自己決定」など行わない方が良いと思う。本人の「とにかく苦しいのが取れればいい。薬を使ってほしい」という言葉によって「透析を希望しない意思であることが確認された」と病院は言っているのだが、「正気でない時の意志」なのにそのまま受け入れたのだろうか。「これまでに遺族から病院に対するクレームなどは一切届いていない」とも病院は言っているのだが、そのことを診療の妥当性の根拠とするのは余りにも浅薄である。クレームするにも値しないと見限られている可能性だってあるかもしれないのだ。「自分たちにも至らなかったところがある」というような言葉が語られないところに、病院の姿勢が透けて見える。
夫は、心労から胃潰瘍穿孔を起こしたために患者の最期に立ち会えなかったことに大きな「悔い」を残した。遺された家族に悔いを残すことは医療の敗北だと思う。家族の心労がそれほどのものだということに私たち医療者は日ごろ十分に配慮しているだろうか。