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No.289 トットちゃんとケア

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 黒柳徹子さんは、向田邦子さん(脚本家)の「切ない恋」も「恋人の死」も知らぬままに、また、渥美清さん(俳優)が癌であることを知らぬままにその末期まで、とても親密なおつきあいを続けたとのことです(本やドラマで描かれていることですから、事実そのままであるかどうかはわかりませんが)。ドラマでは(NHK「トットちゃんねる」・テレビ朝日「トットちゃん」で得ただけの情報で書いています)、つらい症状を抱えていた渥美清さんが、そのことを知らない徹子さんから投げかけられた軽口に笑い(泣き笑い)続ける姿が描かれていました。
 二人が自分のつらいことを徹子さんに言わなかったのは、彼女には「受け止めきれないかもしれない」という慮りがあったのかもしれません 1)。「受け止めて」もらえなければ、そこでおつきあいが切れてしまうかもしれませんし、受けとめきれなかった人は自責の念を抱くことになってしまうかもしれません。
 徹子さんが「鈍かった」ということもありそうですが(いかにもありそう)、二人もそれぞれに彼女に「重い荷物」を背負わせたくなかったのかもしれません。だとしたら、彼女に気づかれないように二人ともずいぶん気をつかったことでしょう。でも、「重い荷物」を背負わせたくないという気遣いは、「排除」ではなく「包み込み」です。そのようなつきあいの質が「低い」ということはありません。「つらいこと」を知らない人とだからこそできる深いつきあいがありうると思います。「つらい立場」の人のほうがたくさんの気遣いをして、その気遣いに包まれて伸び伸びと接してくれる人とのつきあいに(場合によっては、つきあいがなくともその人が伸び伸びと生きている姿を見ているだけでも)、気遣いをした人が支えられるという構造がありうると思います。よりつらい立場の人が相手を包み込むことで相手の人を支え、そのことで自分が支えられることもあると思います。「つらいこと」などわかってもらわなくても良いし、そんなことと関係なくその人らしく明るく傍にいてくれる人とこそつきあいたい、話せば同情されるに違いないけれどそんな気配の無いところでつきあいたい、ということもあるのではないでしょうか。患者さんよりもその人の病気のことがわかっている人には、ケアというものはできないのかもしれません(ケアとは「先がはっきり見えないどうしが、その世界を一緒に手探りで進むことなのかもしれない」という意味です。医療者にケアはできないとか、ケアなどしなくて良いという意味ではありません)。
 患者さんの病状や予後を知らずにつきあうことは、医療者にはやりたくてもできないことです。でも、患者さんの「すべて」を知らないとつきあえないということはないと思いますし、患者さんについて「知っていること」が多い方が良いつきあいになるとは限らないと思います。「情報が多ければ多いほど良い医療ができる」と思うのは「錯覚」なのかもしれません。医療者(特に看護師)のレポートに「患者さんが、こんな深いことを話してくれた」というような意味のことが書かれていることがあります。でも、それはその医療者向けに脚色された深い話かもしれませんし、その医療者とのつきあいを維持するために「苦痛」とともに話さざるを得なかっただけのことかもしれません。「あえて知らないでおくこと」「あえて触れないこと」を少しでも多くしたつきあいの面白さと深さを、ドラマに教えられた気がします。

 医療面接(演習)でも、情報をたくさん「引き出せば出すほど」良い面接であるといった意味の指導がされることがあります。もちろん、どんなに頑張っても初回面接から深いことを「聞き出す」 2)ことができるはずはありません。でも、初対面の時からこと細かに(細大漏らさずに)尋ね続けられてしまうと、この先自分が丸裸にされてしまいそうで、かえって身構えてしまうこともありそうですし、時には「壁」が急造されてしまうかもしれません。患者さんをめぐる情報の多くは、「正規の」面接場面においてよりは、日々の「雑談」の中で少しずつ集められていくものです。それに、雑談の中で集められた情報は「聞かなかったフリ」をすることが可能です。
 コミュニケーションは、はじめて出会う瞬間に生まれる雰囲気に支えられて、患者さんと医療者とが絡み合うこと(=相互作用)で生まれてくるものです。倫理的な「決断」も、そのような関わりの中でなされていくものだと思います。「生み出す」ではなく「生まれてくる」。「する」ではなく「なる(なってしまう)」相互作用。國分功一郎さんの言う「中動態の世界」です(でも「あの概念はやっぱり医者には難しいですよね」と編集した白石さんと先日お話ししました)。中動的に「流れ」に身を委ねられる姿勢をコミュニケーション力ということもできるかもしれません。その「力」は強さではなく柔らかさです。No.262で「好意を抱いてくれれば、そこから患者さんのほうがコミュニケーションを動かしてくれます。患者さんが自分に好意を抱いてくれていることが感じられれば、医療者もその人を無碍に扱うことはできなくなります」と書いたとおりです。
 相互作用ですから、関わりはこちらの意図と多少なりとも「ずれ」続けていきます。ずれるからこそ意外性に満ち、新たな「発見」が生まれます。そのような関わりだからこそ、医療が「楽しい」と言うこともできます。「ずれ」の上に成り立つ患者さんとのつきあいを楽しんできた人の中には、コミュニケーション教育が医師をスキルという型枠(「ずれ」を楽しまず、能動的な働きかけが主張されやすい)に嵌め込むもののような気がして、否定的に捉えてしまう人がいるのでしょう。一方、自分の思惑と「ずれる」ことが不快な人は患者さんとの関わりに苛立ちつづけます。
 コミュニケーション教育で、コミュニケーションの楽しさが伝えられているでしょうか。「患者さんと接することが楽しくてやめられない」ことが伝えられなければ、教育ではないと思います。この楽しさは、「そんなふうに自分が楽しく接している患者さんのほうは、そのことで楽しくなっているのだろうか」と自問し続ける姿勢と表裏をなしていなければなりません。
 コミュニケーション・スキルは、「楽しい」おつきあいのための道具を用意するためのものではないでしょうか。心からの爽やかな(「これからよろしくお願いします」という祈りの気持ちを込めた)挨拶によってつきあいの扉を医療者が開くことができれば、そして開いた扉からおつきあいの部屋に入り患者さんとつきあってみようと少しでも思ってくれれば、そのつきあいはきっとお互いにとって楽しいものとなります。スキルとしてできていないことがあっても、後から身についてくるものです。(2018.01)

1) 「誰にも言ってないので共感されようがない」という状況に自分を持っていくと、「共感されたいけどしてもらえない」苦しみから距離を置けるのである。(津村記久子「日記のマナー」『考えるマナー』所収 中公文庫2017)
 医療者も、「患者さんに寄り添えることなどありえない」「寄り添うことが患者さんのためになるとは限らない」と自覚すれば、そして、自分のしていることを「寄り添っている」と勝手に思いこむことが自分のしていることへの反省的視線を鈍くするということに気づけば、「寄り添わなければ」という強迫感から距離を置けるでしょう。このように肚を決めたどうしだからこそ、つきあいが深まるということもあるかもしれません。

2) 「聞き出す」という言葉には、「絞り出す」という感じがしますし、あるいはまた大根を力いっぱい引き抜くような感じもします。絞り出しても引き抜いても、相手は傷つかざるを得ないのですが、そのことに医療者は気づきにくいものです。

コミュニケーションのススメ 日下 隼人 コラム

● 本コラムの内容は、著者 日下 隼人の個人的な意見であり、マイインフォームド・コンセントの法人としての考え、および活動に参加しておられる模擬患者さんたちのお考えとは関係ありません。

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