No.251 津久井やまゆり園の事件について
コラム目次へ 「・・・・容疑者は『障害者はいなくなればいい』と話していたそうです。みなさんの中には、そのことで不安に感じる人もたくさんいると思います。そんなときは、身近な人に不安な気持ちを話しましょう。みなさんの家族や友達、仕事の仲間、支援者は、きっと話を聞いてくれます。そして、いつもと同じように毎日を過ごしましょう。不安だからといって、生活のしかたを変える必要はありません。
障害のある人もない人も、私たちは一人ひとりが大切な存在です。障害があるからといって誰かに傷つけられたりすることは、あってはなりません。もし誰かが『障害者はいなくなればいい』なんて言っても、私たち家族は全力でみなさんのことを守ります。ですから、安心して、堂々と生きてください。」津久井やまゆり園の事件について、「障害のあるみなさんへ」全国手をつなぐ育成会連合会長の久保厚子さんがお書きになった文章の後半です。
この文章は家族会から出されているのですが、この内容は本来ならば政治にかかわる人たちがまっさきに言うべき言葉です。でも、いまこの国の政治家がこのように言う可能性はとても低いでしょう。そう言ってしまえば、現在進められている高齢者医療や在宅医療、終末期医療、臓器移植、障害者への施策などの根拠が多少なりともぐらつくはずです1)。犯人の言葉は、こうした医療や施策の奥にある本音をあからさまに語っているのですし、その本音はいわゆる「左・右」といった政治的立場を超えています。「偏った考え」に囚われた人として、あるいは「精神障害者」2)として犯人を見ることは、「無駄な延命」「過剰な医療」といった言葉を通して同じような考えに私たちがどこかで取り込まれつつあることから目を逸らせてしまいます。今回の事件のやりきれなさの底には、そうした感覚を私たちも持ってしまっていることへの「負い目」があるのかもしれません。「配慮が欠けている」と指摘されている犯人の言葉や手紙が繰り返し報道されることも、別の「教育的効果」を持っています。
いま、日本中で、障害のある人やその家族、施設勤務者、支援する人たちの心が深く傷ついています。「差別と排除の論理」があからさまに迫り、その論理を否定する論理がツイッターやブログの中でしか語られていない現状が、すでに繰り返し傷つけられてきている人の、その傷口を大きく哆開させてしまいました。やまゆり園に今も入所している人や園のスタッフが、それでも「日常」を維持するためにぎりぎりのところで生きておられるであろうことを思うと、私にはかける言葉もありません。
医療にかかわる者としてこの方々と連帯することは、「私たち医療者は全力ですべての患者さんのことを守ります。ですから、安心して、堂々と生きてください」と患者さんに言える生き方を選び続けていくことしかありえないと思います3)。(2016.08)
1) 政策が決定されるまでには、さまざまな思いの「せめぎ合い」があり、「おとしどころ」をめぐっての駆け引きがあるのだろう。そこで、さまざまに「抵抗」している人たちがいるはずだし、現に行政の現場で力を尽くしている人たちがいる。だから、政策の根底にある「思想」は批判しなければならないと思うが、現在の医療福祉政策をただ「悪い」と断罪するようなことはしたくない。
2) 犯人が「精神障害者」として語られることも、「差別と排除」の論理を加速する。
3) 「増大する医療費をなんとかしなくては」という現実への対応を、私たちが考えざるをえないのも事実である(それを現在の医療費の抑制・削減としてだけ考えるのは誤りであると思うが)。だが、そのような言葉もまた「刃物」となるのだということは忘れないようにしたい。