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No.389 かけがえのない人の命

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 私が大学に入った1967年には、ベトナム戦争が激しさを増していました。学生時代の6年間は、ちょうど全国の大学でバリケード・ストライキが行われている時代でした。職業教育校的色彩の強い医学部の闘争では「医学は何をしているのか」「医学は本当に患者のためになっているか」「患者にとって医学とは何か」「医学研究は患者を踏み台にした実験ではないのか」「医療が人間を治しても、その人間がどのような生き方をするのかを考えなくて良いのか」「患者さんが戻っていくこの社会はそのままで良いのか」「医局講座制は患者とは無縁の医師のための制度ではないか」と言った問いかけがなされました。親戚が医者だらけで、京大教授もいる環境で育った私は、医局の封建的体質について子どもの時から見聞きしていたので、それを批判する運動に感激して、すぐ闘争に参加しました。
 大学闘争の中で、新左翼と言われる政治党派の人々は「武器を取って革命をしなければ」と叫んでいました。そのうち内ゲバさえ始まりました。私は「戦争で死にたくない」「戦争で人を殺したくない」という思いでベトナム反戦運動(べ平連=「ベトナムに平和を!」市民連合)に参加することから活動を始めましたので、「革命」のプロセスで人が死ぬことを「必要悪」ないしは「当然」のことのように語る人たちとは付き合えないと思いました。赤軍派の人の話を聞いたことがありますが、「自分とは全く別世界の人たちだ」と感じるばかりでした(その人も今では医者をしていますが)。私の人生は、「かけがえのない一人一人の命を守る」という「単純な」ところを原点としてきました。その思いは、医師としての生き方にも直接的につながっています。
 新型コロナ感染症への対応について、「人が死んでもやむを得ない」という論が公然と(あるいは隠れたホンネとして)語られてきました。「高齢者はどうせ死ぬのだから」「ただの風邪なのに大げさだ」「インフルエンザだっていっぱい死んでいる」「ある程度の犠牲は仕方がない、ウィルスとの共存を、経済を」というような言葉にどうしてもなじめなかったのは、私自身が切り捨てられかねない高齢者だからでもありますが、学生運動時代からこだわり続けた「かけがえのない一人一人の命を守る」という原点の思いと相容れなかったからです。重症者の診療にあたっている医療の現場を知らない人たち(医者を含めて)ほど「切捨て」の言葉を声高に言っていますが、第一線の医療現場の人たちが、このような言葉に惑わされず、日々献身的な活動をしておられることが救いです。
 「歴史を見るときに、マクロの統計を見るだけでなく、ミクロの一人の人間の視点で読み解く歴史と言うのがなにより大事だと思うんですよ。統計上はたったの1ですよね、でもその患者の思いとか罹っていった状況は千差万別なのに、マクロのデータの中にそれは埋もれている。私は、われわれの社会がまともに病気に対していくには、個人のライフコースの中でどのように病気が関わったかという患者個人の視点・個人患者史という視点が、病気の歴史を考えるうえで非常に重要だと思っています。」(磯田道史)(No.356でも書きました。)

 第一線の医療現場で働いている方々が「人の命をかけがえのないもの」として活動しておられるのに、そうした営為とは正反対の大規模な侵略戦争が始まってしまいました。1968年、民主化運動の始まったチェコスロバキアにソ連軍が介入してから54年。この国は変わらないと言うべきでしょうか。むしろ、今回は建前としての「社会主義の理念」さえない、むき出しの領土拡張・自国第一主義です(あのころも「社会主義の理念」は、ただの目くらましに過ぎなかったのですが)。ロシア・中国をはじめ世界的に「強権的国家」が増えつつある現代に暗澹たる思いしかありませんが、54年前と同様に抗議を続けていきたい。この危機に「わが意を得たり」とばかりに一部の政治家が憲法改悪と日本のいっそうの軍事化を主張していることに対しても、「反対」を言い続けていきたい。
 「維新や橋下徹がウクライナ戦争でプーチンを批判せず憲法九条を批判して改憲を主張してるけど、プーチンのような独裁を抑止する現憲法を無くしたら、真っ先にプーチンになる人たちだよ。」(町山智浩/映画評論家) (2022.03)


日下 隼人

コミュニケーションのススメ 日下 隼人 コラム

● 本コラムの内容は、著者 日下 隼人の個人的な意見であり、マイインフォームド・コンセントの法人としての考え、および活動に参加しておられる模擬患者さんたちのお考えとは関係ありません。

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