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No.430 ポリティカル・コレクトネス(2)

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 医者はどうしても「正義」の感覚に囚われがちで、「自分が正義である」という立場から患者さんに接してしまいがちです(教師もそうです)。患者さんの中には、医者に感謝している場合でさえ、「正義」の立場からの言葉を「鬱陶しい」と思う人がきっと少なくありません。
 病気の人の「辛さ」は、医学的な正しさ(妥当さ)だけで支えられるものではないということを医者は気づいているでしょうか、それとも気づかない「ふり」をしているのでしょうか(医学的な正しさ/妥当さなしに支えることもできないのは確かですが)。
 医者の「正義」の言葉に、畏縮する人、自分の思いを言うことを控えてしまう人、傷ついてしまう人がいることに気づかない医者も少なくなさそうです。

 そんな医者が医学教育を行っています。そして、医学教育でも、しばしば「これが正しい」と「指導」されがちです。医学知識や手技についてはそのような指導が必要なことは少なくありません(それだって、不確かなことは少なくない)。でも、倫理やプロフェッショナリズム、コミュニケーションについても、(少なくともある「線」までは)「これが正しい」という雰囲気で指導されるのはどうでしょうか。そこには危うさがあります。医者で教師である人の指導は、どちらも「正義」の立場から人を「教え導き」がちなだけに、二重に危ういのです。
 こうして、同じような(「正義」の立場から人に語りかける)医者が再生産されます。
 「倫理」や「プロフェッショナリズム」を語る教育者は、自分が医学生に「鬱陶しい」と思われているのではないかと考えたことはあるでしょうか。なんと思われようと伝えなければならないことがあることは確かですが、「迷い」ながら医療に携わり教育に携わっている自分の姿を示すことからしか、大事なことは伝わりません。

 「つらい」状況にある人、「悔しい」思いをしている人が、その思いを声にあげることは、支持し守られなければなりません。声の大小/言い方は関係が無いし、論理的であるか否かも関係ありません。
 一方、当事者でない者は、コレクトネス=自分が社会的に「正しい」と思うことを「条理を尽くして」丁寧に主張することが必要です。
 でも、それは「正義」一般の中に自分を融解させることではないと思います。自らが「正義」だと疑いなく語るのではなく、自分が語る「正義」は誤っている部分があるかもしれない、自分の思いと反する人も「敵」ではないという立場を失わないようにしたい。それこそがリベラルということなのではないかと思います 1)

 「正義」を確信して強く訴えることと「正義」と書かれた棍棒で大きな声をあげて相手を叩くこととは同じではありません。ポリティカル・コレクトネスは他人を叩くための棒ではなく、まずは自分(の中の不正義)を叩くための棒です。その姿を自ら示すことが、他の人に訴えるということだと思います。新島襄(同志社の創始者)の「自責の杖」事件もそうだったのかもしれません。
 「ためらい」と「恥じらい」「自分の足元への問いかけ」の感じられない「正しさ」の主張は、それ自体が権力/差別になりがちです。
 「自信のない声や、言い淀む声、朴訥な声や、なにかに身を捧げるような静かな声の方に真実味を感じる。」(島田潤一郎/朝日新聞「折々のことば」2024.10.11)
 論文では辿りつけない世界です。

 「人間はひとつのウイである・・・。それを繰り返し主張することを止めまい。生へのウイを。愛へのウイを。高邁な精神へのウイを。だが人間はひとつのノンでもあるのだ。人間蔑視に対するノン。人間の卑賤に対するノン。人間搾取に対するノン。人間にあって最も人間的なもの、すなわち自由の圧殺に対するノン。」(フランツ・ファノン『黒い皮膚・白い仮面』みすず書房1998)  (2024.12)

1) 「立憲民主党は左派の政党からリベラル政党になるべきだ」と書いている元議員がいました。「保守リベラル」を自任している私もリベラルを軸とする政党がいまこそ必要だという意味で同感ですが、左派とリベラルとを対立的に語ることは、ことさらに対立構造を掻き立てているような気がしました。何派であれリベラルというところでの連帯を考えるほうが良いのではないでしょうか。それは、政治だけではなく医療にもあてはまると思います。
 リベラルという立場は新自由主義的な「自律」「自己決定」「自己責任」に親和性があり、したがって尊厳死/安楽死の選択には肯定的な立場をとる人も少なくありません。でも、私は、一人一人の人生が大切にされ、国や経済といった目的のために人が駒のように使われたり切り捨てられたりすることのない社会、貧困や社会的な様々な困難・差別にあえぐ人を無くす方向での「政治」のことだと考えています(この政治は,政治家が行うことだけではなく、私たち一人一人の暮らしの選び取り方のことです)。
 「保守思想とは・・・・言葉と論理をていねいに展開することで、合意できぬ他者との距離を埋めていく静かで地味な思考実験」富岡幸一郎「保守のコスモロジー」群像2024.10


日下 隼人

コミュニケーションのススメ 日下 隼人 コラム

● 本コラムの内容は、著者 日下 隼人の個人的な意見であり、マイインフォームド・コンセントの法人としての考え、および活動に参加しておられる模擬患者さんたちのお考えとは関係ありません。

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