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No.255 希望があれば

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 「希望だ。それがあれば、人間は生きていける」。
 先の戦争でシベリアに2年余り抑留された老人は、「未来がまったく見えないとき、人間にとって何がいちばん大切か」と問われて、このように答えました(小熊英二「生きて帰ってきた男」岩波新書2015)。島崎敏樹は「自分の前の方があかるくひらけていると、私たちはこころよい。そして自分を守ってくれるうしろだてが背後にいて、両脇には腹蔵なくつきあえる連れが並んでいると、私たちは安心して生きていける」と書いています(「孤独の世界」中公新書1970)。
 自分が病気になった場合はもちろんですが、家族や親しい人が病気になった場合でも、その瞬間から言葉では表現しきれない「重苦しい」雲が覆いかぶさってきます。あたりが「暗く」なります。重い病気や終末期であれば、暗さは増します(この「重い」は患者さんが感じる重さであって、疾患の重症度と相関するとは限りません)。そのような状況にある人に医学的な説明をするとき、医師は「希望」「(その人の前に広がる)あかるさ1)を保障することを目指して語っているでしょうか。「この人ならうしろだてになってくれそう」と感じてもらえるような話し方をしているでしょうか、その思いを伝えているでしょうか。
 インフォームド・コンセントは、書類へのサインのことではありませんし、知識の「分与」でもありません。患者に選択肢の一つを「選ばせる」ことでもありません。「自己決定」という言葉には、荒野に置き去りにされたような感覚がつきまといます。今医療現場で行われている「インフォームド・コンセント」は、「患者の、患者による、患者のためのもの」になっているとは言えないと思います。「真実を告げる」という錦の御旗のもとに(こんな時だけ、厳格なカント主義者?に医者はなるのか)、医者の満足と患者の失望と諦念だけが残るという荒涼とした光景が至る所で見られているのではないでしょうか。落ちがなく、完璧に患者が理解できる説明がされるとしても、それだけではこの荒涼さは増すばかりです。非の打ちどころのない説明は、かえって患者を窒息させかねません。「患者がわかるように説明する」「患者がよくわかる説明技術を身につける」というだけでは、どこまで行っても「医療者の、医療者による、医療者のための」インフォームド・コンセントです2)
 医療者との「関わり(もっとそばに居てほしい)」を求めての「ちゃんと説明してほしい」という患者の願いは、字句通りのものとして受け止められ(たぶん意識的に)「わかりやすい説明」という技術に矮小化されてしまっています。それすらもできていない現実があるのは確かですが、そこで「もっと上手にやってほしい」と言うだけでは、関係性は変わりません。
 患者・家族の顔が和らぐことがなければ、そして、医療者のことを自分が一歩前に歩みを進めるための同伴者であると患者・家族が感じられることがなければ、その説明はインフォームド・コンセントになってはないのです。面談室での説明だけではなく、折々の場面で患者・家族の心に「あかり」を灯しつづけていくことができたとき、インフォームド・コンセントは患者のためのものとなります。「あかり」は、言葉だけで生まれるものではありません。言葉を支える関わりがなければ生まれません。それは医療者と患者との共同作業であり、出会いから別れまで一緒に歩いていく一つ一つのステップの積み重ねそのものがインフォームド・コンセントです。
 患者さんに「希望」が生まれ、これからの人生があかるくなったとき、その関わりは倫理的なものだと言うことができると思います(そのような視点を欠いた倫理はありえない)。だから、患者・家族の心に「あかり」が灯ったとき、医療者の心にも「あかり」が灯ります。

 島崎は「ひとりで闇に旅だたされる生涯の最後の瀬戸際の不安を鎮めるために欠かされないのは、親しい人がそばにいてやること、そしてしっかりと手を握ってやることである」とも書いています(「生きるということ」岩波新書1974)。そのときに「手を握る」ことは遺される人の人生も支えます。DNR(DNAR)とは、このような時空を保障するためのものではないのでしょうか。「『手を握る』ことができるように私たちはできるだけのことをします。その邪魔になるようなことはしませんから」という約束ではないのでしょうか。
 「死者を安らかに送りたい」という患者さんを囲む人の願いは、「少しでも荷を軽くしたい」という医療者の思惑に置き換えられています。その結果、必要な診療さえしてもらえないという状況も生まれていますし、心臓マッサージをして「しまった」医師が責められることすらあります。「人のために働きたい」と思って医療者になった人に、目の前の患者さんに手を尽くすことを控えさせてしまう状況を「進んだ医療の形」などと勘違いしてしまってはいけないと思います。DNRとは離れてしまいますが、呼吸補助装置のおかげで眠るように生き続ける人の手を少しでも長く握っていたいという願う人がいれば、その思いを大切にすることが医療だと思います3)

 この国では、患者の願いを外国語(漢語も含まれます)が受けとめてしまうと、願いとは全く違うところに着地してしまいがちです(医療に限ったことではありません)。原義がどうであれ、そして世界標準から外れてしまおうと、インフォームド・コンセントやDNRの「定義」を、日々の実践の中で変えてしまうという選択肢はあると思います。現に、そのようにしている医療者は少なくないはずです。(2016.10)

1) この「あかり」は、ほんの少し先の足元を照らすだけでも良い。その人の後(これまで歩いてきた道)からの「あかり」が前を照らすこともあるだろう(これは「プラトンの洞窟」の譬えとは関係ない)。漆黒の闇の中では微かなあかりにほっとするが、少し薄暗い程度の時にはかすかなあかりでは状況は変わらない。「少し薄暗いだけだから照らさなくても良いだろう」と医療者は考えがちだが、だからこそその場をより明るくするための強い光が必要なことが少なくない。他方、真っ暗なところでは明るすぎる光は眩しいだけである。こうした行き違いに、私たちは気づきにくい。医師が言いよどむ瞬間の存在、医師の目に浮かんだ涙だけでも、「あかり」が灯ることもあるのに。
 嘘を言って「あかり」を灯すという意味でないことは言うまでもないが、しばしば患者が医学的に勧められない治療法を選択するのは、そちらのほうが目くらましの「あかるさ」「希望」を提供しているからである。「嘘かもしれないけれど、そちらに賭けてみたい」と思う人がいるのは、当然である。その気持ちに気を配ることなしに、治療法の誤謬をいくら指摘しても「騙されている」と説得しても、患者は翻意しないだろう。患者とは、基本的に非合理的・非論理的な存在なのである(そのように生きることも「患者の権利」である)。そうした人の混沌に付け込むことと、その混沌とじっくりとつきあうこととは正反対のものである。そして、その混沌とじっくりつきあうことが、医療者自身の人生を豊かにする。

2) 「歌はね、・・・その歌手の生きてきた時間で歌うの。どれだけ、どんなふうに生きてきたかで、歌は違ってくるの」(連続テレビドラマ「てるてる家族」134回から)。説明する医師の言葉に(言葉遣いに、話し方に、表情に)その人の生きてきた時間がにじみ出る。だから、同じ言葉で説明しても一人一人によって違うものとなるし、そのうえ、受け取る患者さんの人生の数だけ受け取り方も異なる。患者さんは、話す医者の姿にその医者の生きてきた歴史をみて(医師としての経験年数の長短ではない)、その言葉を「理解」し、その医者とのつきあい方を考えていく。その医者をどのていど信じるか、判断していく。私たちが患者さんに話すというのはそのような営為だということを伝えるのは、医療コミュニケーション教育の仕事である。

3)・医療費の問題などは、この願いとくらべれば些細なものでしかない。そう願う人に「おためごかし」の言葉で断念を迫ることを、医療者の仕事の範疇に入れるべきではないと思う。
・「手を握り続ていたい」と思っても、そばに居続けることで家族や親しい人は避けがたく消耗していく。その人のケアも医療者の仕事である。
・そうした場面に辿りつかないことも少なくない。辿りつくまではその時空を想像することはできないので、事前の「選択」は場面場面で揺らいでいく。
・医療者が手を握る人になっていけないはずはないし、医療者しか手を握る人が居ないこともあるだろう(マザー・テレサのように)。

コミュニケーションのススメ 日下 隼人 コラム

● 本コラムの内容は、著者 日下 隼人の個人的な意見であり、マイインフォームド・コンセントの法人としての考え、および活動に参加しておられる模擬患者さんたちのお考えとは関係ありません。

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