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No.440 ACPは「生きる希望の灯」を灯すか?(2)

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 「あなたのACPはなぜうまくいかないのか?」という講演会は、この題名の本があってのものでした。この本で書かれていることは、スキルとしてのコミュニケーションであり、「誘導的な」会話の進め方です。

 「どちらかを選んでください」ではなく、「(このような経過から考えれば)心肺蘇生はしないほうがいいと思います。いかがですか?」と言うほうがshared decision makingになると書かれていました。友人との会話で「おいしい居酒屋」を勧める際の会話が例に挙げられていましたが、そんなことに譬えられてもと思ってしまいました。医者にとっては、生死の選択と居酒屋の選択は同じなのでしょうか。
 この言葉の前に、どのような説明がされているのでしょうか。事態を分かりやすく説明しているでしょうか。いくらでも誘導的な説明ができてしまいます。患者さんの希望/思いを、どのように聞いているのでしょうか。患者さんという一人の人の人生の広がりをどのように見ているのでしょうか。

 「「○○はしないほうがいいと思いますよ。どうですか?」と尋ねることで決断するプレッシャーをいくらかでも軽くして、患者側が「そうですね」というだけにするような配慮ができることが、プロとしての矜持だ」とも書かれていました。「矜持」というのは自分を戒める姿勢なのに、言葉が「安売り」されている気がしました。
 「それでは心肺蘇生をしましょうよ。いかがですか?」という例文はどうして挙げられないのでしょうか?
 ACPの到達するところはいつも一方向ばかりです。
 「あなたがどのような選択をしても、最大限尊重し、お手伝いします」と言ってくれない医者とACPについて話し合うことを「強要」されるのは「きつい」ことではないでしょうか。

 患者さんの未来について話し合うためには医師が患者さんと信頼関係を育むことが欠かせないと私は思うのですが、そのことはあまり書かれていません。
 信頼関係のないところでスキルを駆使しても、それは医者の都合/思惑の「押しつけ」でしかありません。そこには、「わかりやすい言葉を工夫する」ことと同じような(上からの)姿勢を感じました。
 「コミュニケーションはスキル」だと書かれています。確かにスキルはありますし、私だって使いますし、そのことを本に書いてきました。でも、コミュニケーションのスキルは、患者さんとの信頼関係を育むためのものです。
 ここで言われるスキルは、患者さんを操作対象とするスキルです。患者さんは自己決定したかのように誘導され、そのぶん患者さんには「逃げ場」が無くなります。
 この自己決定は、今の自分が想像できることと理解できる範囲で未来の自分の生きる姿を決める(思いやる)というセルフ・パターナリズムでもあります(セルフ・パターナリズムについてはNo.379にも書きました)。

 今の日本の状況下では、ACPは、患者さんの「生きる希望」を灯すよりは、終末期の医療の手控えを患者/家族に迫る可能性のほうがずっと高い 1)。そこに誘導することが「うまくいく」と言われているかのようでした。しかも、その底には大きくは社会保険料の削減、現場では医療者の手間を省く下心があります。
 ACPに限らず医療を考える際に、医療者にとって「うまくいく」というところから考えだすことは「頽廃」だと思います。このテーマを聞いた時の私の違和感はそこにありました。(2025.06)

1) 「ACPは終末期医療を改善していない」「ACPは医療の決定に影響を及ぼしたり、提供された医療の質に対する患者や家族の評価を高めたりしていない」「ACPの有無で、その後の医療の利用、患者のQOLに違いがない」という報告もあります(R.S.Morrison et al.,What’s wrong with ACP? JAMA326(16)1575-76 Oct.26,2021)。


日下 隼人

コミュニケーションのススメ 日下 隼人 コラム

● 本コラムの内容は、著者 日下 隼人の個人的な意見であり、マイインフォームド・コンセントの法人としての考え、および活動に参加しておられる模擬患者さんたちのお考えとは関係ありません。

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