No.421 哀しみと怒り
コラム目次へ 「本来「悲しい」ということは・・・その現実全体を取りすてたい、ないものにしたい。「消えてなくなれ」という身動きではあるまいか、と考えてみる。だが消えぬ。それに気づいた一層の苦しみがさらに激しい身動きを生む。だから「哀しみ」は「怒り」にきわめて身振りも意識も似ているのだろう。いや、もともと一つのものであるのかも知れぬ。」(竹内敏晴『思想する「からだ」』晶文社2001)
医療の現場では、たくさんの「怒り」に出会います。患者さんだけではなく、医療者にも「怒って」いる人はいっぱいいます。「怒り」に対して、「ノンテクニカルスキル(良好なコミュニケーションを)」、「アンガーマネージメント」、「リスク管理」が語られます。
管理者が考える対策は、警備の強化になりがちです。患者さんの「怒り」に対して、「業務妨害だ」「警備員を/警察を呼べ」というような言葉を、病院の管理部門にいた時には何度も耳にして、そのつど悲しくなりました。
「怒り」は、予防され、対応され、排除されるものとされています。
でも、形としては「業務妨害」になっているかも知れないけれど、そもそもその「業務」は適切に行われていると言えるでしょうか。その「業務」が患者さんを疎外したり傷つけたりしていたとしたら、その業務自体に問題があったことになりますが、そのことについては問われません。「医療は正しいことをしている」という「主張」を根拠として「円滑な管理」を目指す「権力者」の前では、患者の声はかき消されてしまいます。
あのころ、そのことを管理会議で私はうまく表現できませんでした。「まあ、まあ」とか「もう少し話を聞いてみたら」というくらいのことしか言えませんでした。
「怒り」に直面した時、「哀しみ」に直面した時、それがほとんど同じものであるということに、私たちは気づいているでしょうか。怒っている当事者、哀しんでいる当事者も、そのことには気づいていないことの方が多いでしょう。
だから、人が「大きな声を出している」ことが、それに接するある人には「怒り」に見え、ある人には「哀しみ」に見えることがあるのです。大きな声を出している人が「怒り」に振れたり「哀しみ」に振れたりすることがあるのです。そのブレを見るほうは「変な人」と考えてしまいがちですが、むしろ自然なことだったのです。
「怒り」への最も適切な対応とは、怒っている人の心の奥の「哀しみ」を見つめることかもしれないと、改めて思いました。それは、私たち自身の「哀しみ」に気づくことでもあります。
病院管理者にもコミュニケーション教育に関わる人にも、そして若い医師たちにも竹内さんの言葉を伝えたい。(2024.08)
日下 隼人