No.425 謝罪の軽重
コラム目次へ 古田哲也さんは、謝罪には「混んでいる電車が揺れた時にたまたま隣の人の足を軽く踏んでしまう」ようなときの「軽い謝罪」と「たまたま相手の大事にしている花瓶をこわしてしまった」ようなときに必要な「重い謝罪」とがあると書いています。
重い謝罪の場合には、「それにみあう言葉遣い・態度、速やさ、責任の所在、償い」、つまりは誠意が求められるのです。(『謝罪論 謝るとは何をすることなのか』1) 柏書房2023)
医者の謝罪がしばしば受け入れられない、かえって不快なものと患者に受け止められるのも、医者と患者との間では「重さ」の感覚が違うからなのではないでしょうか。
もちろん、取り返しのつかない大きな医療ミスでは、そう違わないでしょう(「ミスではない」と医療側が言い張るような場合には、大きく違ってしまいます)。
でも、患者さんの不満/苦情の多くを、医者は「こんな(些細な)こと」「たいしたことじゃない」「ちょっとした行き違い」「言葉の綾」、つまりは「電車でたまたま足を踏んだ程度のこと」と捉えてしまうことから、すれ違うのです。医者はちょっと「足を踏んだ」だけだとしか思っていないかもしれませんが、患者さんはとても痛かったのです(思い謝罪を求めたいことだったのです)。
医学的に見れば、ほんとうに「些細なこと」のこともあります。でも、そのような場合でさえ、それはあくまでも「医学的に見れば」というだけのことです。医学的な蹉跌に端を発し、医師の対応が増幅させた(「医学」には収まり切らない)人生の深い傷がそこにあります。
古田さんは、「大きな被害」を受けた時の被害者の精神的損害として、
「ふたたび同様な目に合うのではないかという不安、恐怖、社会に対する不信」
「加害者に対する怒りや憤りなどの反応的態度」
「尊厳や自尊心の毀損」
「受動的な混乱状態、無力感」(なぜ自分がこんな目にあわなければならないのか)、
「当該の事件や事故に心がとらわれてふっきれない状態」
「不正がなされてただされないことへの義憤、加害者に仕返ししたいという悔しい心境」
医者が「こんな(ささいな)こと」「たいしたことじゃない」「ちょっとした行き違い」「言葉の綾」としか思っていないことは、その言葉や態度から分かってしまいます。でも、患者さんにとっては、見た目はかすり傷でも心に深い傷がついていますし、医者の言動で傷がさらに断ち切られることもありがちです。
「こんなささいなこと」と軽く考えているから「こんなに謝っている」と医者は思います。なるべく「ささいなこと」に押しとどめておきたいという“願望”もそこに働いています。患者さんには、医者の言葉の端々からその心根が透けて見えてしまい、そのことで怒り/不快感が増幅します。深く傷ついたほうは「まだまだ足りない」「全然謝っていない」「誠意が感じられない」と思います(当然のことです)。
そのうえ、「謝れば許されるはずだ」という医者の心根がそこ(底)にはあります。「こんなに謝っているのに、どうして許さないのだ」「許さないのは、なにか下心があるのではないか」「人格に問題があるのではないか」と他責に転じてしまいます。心は隔たるばかりです 2)。
そのことに医者が気づかない限り、そしてそれに見合った態度・言葉遣いをしない限り、医者の謝罪は「サーセン(すみません) 3)」程度のものと受け取られてしまうのです。
「患者安全」「医療事故対応」については研修も行われていますが、こうした「行き違い」が伝えられているでしょうか。
1) この本では、「日本の戦後世代はいかなる意味で集合的責任を負いうるのか」「謝罪の主体はどこまで拡張されうるか、その限界事例としての集合的責任の負担」などについても書かれています。
2) 椎間板ヘルニアの手術の前夜、病室に来た担当医から「言い忘れていたけど、この手術では半身不随や歩行障害で車いす生活になる危険性もあります」と言われた人がいます。ある大学病院でのことです。「これも言っとかなくちゃ(まずい)」と思い出したのでしょうか。病いへの感覚について、患者と医者の間には絶望的なほどの隔たりがあります。
3) 「すみません」を崩した言い方で、軽い謝意を表す俗な表現。謝意を示しつつ、相手を軽くあしらう意味合いで用いられることが多い。
日下 隼人