メインビジュアル

No.326 神話

コラム目次へ

 若い社会学研究者と看護大学院生たちの勉強会1) に参加させてもらったときのことです。あるレポートで「ネガティブな感情の表出を良しとしない病棟文化」「常に冷静であるべきとの職業規範」という言葉と出会い、私は戸惑いました。ステレオタイプ的な物言いにも少し引っかかりましたが、それはある種の神話ではないかと感じ、そのことをお話ししました。
 このようなことばが語られるとき、念頭に置かれているのは、患者さんが死亡した時に医療者が泣いてしまったり、混乱して何も仕事が出来なくなってしまうことでしょう。混乱して必要な医療行為が出来なくなるのは問題ですから(それはケアの放棄ですから)、現場でそのような意味のことを先輩が若い人に言うことは確かにあります。
 でも、涙は違います。患者さんを支えるケアは医療者の涙があって初めて完結するのではないでしょうか。親身になってケアをしてくれていると感じていた医療者が、患者が亡くなった時に涙も流さず、淡々と仕事をこなすばかりでは遺された人は寂しくなってしまいます。冷静な慰めの言葉は心に届きません。「所詮、職業的な優しさだったんだ」と感じ、せっかくのケアが「尻切れ」になってしまいます。冷静を保つことと涙を流すこととは相反するものではありませんし、涙は「ネガティブな感情の表出」ではありません。ボロボロ泣いたって良いのです。その涙には、遺された人たちのこれからを支える力があります。オロオロしたってよいのです、家族もオロオロしているのですから。このことは、患者さんが完治して帰る場合でも同じです。
 このときの涙には医療者を浄化し、そのアイデンティティを保たせる力もあります。「医療者の優しさは職業的なものだ」というのは事実ですが、それを貫くだけでは医療の仕事に自分の人生の意味を見いだすことは難しいでしょう(「自分の仕事に人生の意味を見出せる」ことが、すでにいくばくか特権的なことではあるのかもしれませんが)。患者さんの死や思わしくない転帰を見続けることに疲れてしまうのが医療の場であり、医療者は誰もが結局はセルフケアしていくしかありません 2)。この涙は、セルフケアの味方です。「涙を見せてはいけない」と言う先輩看護師もそのことを知っていて、後輩を温かく見守りながらあえてそのように言っていることのほうが多いのではないでしょうか。言葉の奥には、言葉通りではない「病棟文化」があるのだと思います。

 「医師にとって、患者の死は敗北だ」という言葉を耳にすることもあるのですが、それもたぶん神話です。患者さんの経過をていねいに見ていれば、医師にはその患者さんがどうなるかは予測がつきます。予測通りの経過をとれば、それは医療者にとっては「正解!」なのであって、敗北とは感じません(もちろん想定外のことが起きることもありますし、その時には自己の不明についての敗北感は生じます)。そのようなことを言う医者がいるかもしれませんが、きっと本気では思っていませんし、せいぜい自己肯定のための思想的怠慢にすぎません。
 けれども、遺された人、周囲の人に「悔い」を残すような医療は敗北です。たとえ完治しても、患者さんや家族に「悔い」「悔しい思い」が残れば敗北です。もちろん、どのような医療が行われても「悔い」はかならず残ります。「感謝の言葉しかありません」「本当に良くしてもらった」と言う人たちでも、その心の奥底に、医療の内容が完全には理解できないまま命綱を委ねなければならなかった「悔しい思い」、医療者と患者という非対称的関係(患者はどこまでいっても「される側」を超えられない)そのものへの「悔しい思い」が通奏低音のように流れています(自分でも気づいていないこともありますし、言葉にできないごくわずかの「モヤッとした」気分のこともあります)。それでも、「悔い」がはっきりと自覚され、「悔やしい思い」の方が大きく心にのしかかっているようなら、間違いなくそれは医療者にとって敗北なのです 3) 4)。ケアの質、医療の質とは、このことを措いてありえないと思います。(2019.06)

1) 元国立看護大学校小児看護学教授の駒松仁子さんが主宰する研究会、通称「駒研」。もう30年以上続いています。

2) 訪問医療に関わっていた知り合いの栄養士さんは「みんな亡くなっていくことに疲れてしまった」と言って退職しました(しばらくして管理栄養士の仕事は再開しました)。疲れたらしばらく休めるという体制が整えられなければ、疲れないように一定の距離を置いて患者さんとつきあうかしかなくなってしまいます。

3) 学習者に「悔しいな」と思わせるような指導は教育の名に値しません。「良い指導を受けた」という思いの中に教育は生きるのです。それは言葉が厳しいか否かとは関係ありません。優しい言葉をかけられても「悔しいな」と思うこともありますし、罵倒されても「良かった」と思うこともあります。私のように、指導されてから何年何十年も経ってから、その時の指導者の言葉や対応に気づいて「良い指導を受けた」と思い至る「鈍い」学習者もいることも忘れないようにしたい。

4) この悔しい思いは、医学的に「条理を尽くした説明」や「手続きの適切さの主張」によって解消されることはありません。No.323に書いた「正気の時の患者さんの意志を尊重した」という病院の説明には「理性信仰」があります。「人は(理性的に)話せばわかる(わかりあえる)」のであり、それでもわからないのなら「わからない方が問題だ」というところに医療者が留まるかぎり、患者さんの悔しさは増大するばかりです。理性的に話し合う姿勢だけでは「わかり合えない」ことの方が多いのです。私たちは理性的であるように努めなければなりませんが、人間の抱える「理性にはおさまりきらないもの」を含み込まない「理性」は、理性の名に値しないと思います。

コミュニケーションのススメ 日下 隼人 コラム

● 本コラムの内容は、著者 日下 隼人の個人的な意見であり、マイインフォームド・コンセントの法人としての考え、および活動に参加しておられる模擬患者さんたちのお考えとは関係ありません。

● コラムNo.230 までは、東京SP研究会ウェブサイトにアクセスします。