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No.331 戦争体験

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 8月になると、戦争体験についての報道が増えます。体験した生存者が少なくなってきているのですから、戦争の悲惨さについてはいくら報道してもしすぎるということはありません。ただ、戦争の被害を受けた側の視点、身内を戦争で亡くした側の視点からの記録だけでは「足らない」という気がします。これからの機械化・コンピュータ化された戦争で、この国の人たちは無人飛行機を飛ばし、(談笑しながら)ボタンを押す側になる可能性のほうが高いかもしれません。その爆弾の下には、第二次世界大戦の空襲でこの国の人たちが受けた被害と同じような被害を受ける人たちがいるはずです。この国の戦争や空襲の被害の記録は、これから日本人が押すかもしれないボタンによって殺戮を受ける人がいることへの視線につなげなければならないと思います(もちろん、同時にこの国の人たちが爆弾の被害を受ける可能性もあります)。
 先の大戦では、国内外で多くの人が亡くなりました。非戦闘員のほうがずっと多く死に、虐殺された人もたくさんいます。身体や心が傷ついた人は、その何倍もいます。最近、「祖国を守るために散華された英霊の思いが、現在日本に暮らす全ての人々届きますように、みんなで心を合わせて(靖国神社に)参拝いたしました」とブログに書いた国会議員がいました。このような言葉は、この国が起こした戦争のために命を亡くした人を貶め、とりわけ加害者の位置に堕としこまれた上に生命を亡くした人を二重に貶めるものです。先の大戦を振り返るということは、戦闘員・非戦闘員、自国民・他国民の区別なく、命を落としあるいは傷ついた人々に詫びる以外、私たちにできることはありえません。死には「無念な」死しかありません。どのような思いで死のうと、どのような死に方をしようと、すべての死はその人の人生を挫折させたという意味で「あってはならない死」です(その意味ですべて「犬死」です)。生き延びている私たちにできることは、「二度とこのようなことを起こしませんから」と伏してその人たちに「詫びる」こと以外にありえないのです。「散華」「英霊」「参拝」などという言葉を弄んで生き延びている自分を甘やかすことは、死者の冒瀆でしかありません。
 「個人の権利ばかり主張しないで、国家のために奉仕しろ」という国会議員もいます 1)。しかし、国よりも一人の命のほうが重く、人が生きる権利よりも重いものはないのです。No.322で柳澤秀夫さんの「いくつになっても生きてる人間っていうのはこれでいいっていう事は絶対ないんだって。本当に『半日でもいいから長く生きていきたい』って、これがやっぱり人間の正直な姿じゃないかなって・・・」という言葉を紹介しました。この言葉のほうが正しいのです。このことについては、オッカムの剃刀のように単純化すべきです。「あってもよい死」「望ましい死」などという言葉には危うさがつきまといます。「国家のために奉仕する」ことを人に求めようとは私は全く思いませんし、自分もそのつもりは全くありません。私たちの人生は、周囲の人を支え、支えあうことによって意味づけられるものだと思いますが(この支えあいは国家という幻想体に収斂されるものではありません)、それでも自分の生きる権利が優先されるべきです。
 「半日でもいいから長く生きていたい」という言葉を、現在の医療は受け止めることができるでしょうか。戦争での死を賛美する政治家と、他人に「無駄な医療・無駄な生」「良い死に方」を語る医療者とは、どこかでつながっているように見えます。この国の現状が「1984年」(ジョージ・オーウェル)に向かって進みつつあり 2)、その先には「わたしを離さないで」(Never Let Me Go カズオ・イシグロ)の世界が近づいてきていると感じるのは、思い過ごしでしょうか。「いくらかの原則を立てて異議申し立て」を続けていくことは、このような状況に対してこそ必要なのだと思います 3)
 「死刑に処せられる人が、時として不動心と死への軽侮を粧うことがあるが、あれは実は死を正視することへの恐れにほかならない。だからあの不動心と軽侮は、彼らの精神にとって、彼らの目に当てる目かくし布とおなじものだ、ということができる。」(ラ・ロシュフーコー箴言集 岩波文庫1989)(2019.08)

1) 自国の歴史を正視しない人は、旧ソ連や近現代の中国、ナチス支配下のドイツでの抵抗的個人の歴史についても「無知」なのでしょう。このような人たちこそが人類の良心であり、これらの国のその後(あるいは現在)を価値あるものとしています。良心的徴兵拒否を貫いた人たちもこの中に含まれます。

2) 現在の中華人民共和国を民主化の遅れた国とみるよりも、「1984年」が先取りされつつある世界としてみるほうがあてはまるところが多いと私は思うようになりました。その姿に憧れている政治家は少なくないのでしょう。

3) 医療倫理についてどのように教育するか、いつも(同じような)議論がされています。でも、4分割法を用いるとしても、ACPを推進しようとする医師とACPの抱える問題をおろそかにしない医師とでは、「教育」の仕方は異なるでしょう。「教育」する人が既成の価値観と格闘していない限り、倫理についての思考は深まりません。「答えが出ない」ことにとどまり続ける姿勢を伝えることが倫理教育ですが、そのことはなかなか公的な場では語られません。「『直観という方法』を使って対象を理解する・・・ためには、常識的なものの見方に逆らうことが必要なのである。ということは、それぞれの分野の常識にまずは通暁しなければならない。」(中村昇「ベルクソン=時間と空間の哲学」講談社2014)

コミュニケーションのススメ 日下 隼人 コラム

● 本コラムの内容は、著者 日下 隼人の個人的な意見であり、マイインフォームド・コンセントの法人としての考え、および活動に参加しておられる模擬患者さんたちのお考えとは関係ありません。

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