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No.249 「共感する能力は育てることができるか?」(2)

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 「共感」することを教えることは、できるのでしょうか。
 他の人の気持ちがそのままわかることだとすれば、もちろんそんなことはありえません。相手の人もそんなことは無理だと知っていますし、自分の思いが「隙間なく」わかられたらいたたまれないでしょう。
 逆に、特別な教育を受けなくとも、人は誰もが多少なりとも相手の気持ちが分かった気になることを日々経験しますし、「とても分かってしまった気がする」ことも「身につまされる」こともあります。
 「われわれ自身の感覚や感情、さまざまな心的作用は、多分に一般的な『類型』のほうから理解されている。・・・・ このような類型的な捉え方において、自己と他者の経験は、相互に交換可能で、重ね合わせが可能な諸経験として捉えられている。類型的な理解の枠内に収まるかぎり、自分も他人も、十分に理解可能であり、互いに理解し合えると思われるのである。」(田口茂「現象学という思考」筑摩選書2014)このような関係は日常生活について言われることですが、医療の場でも基本的には同じです。ただ、医療の場では、「とても分かってしまう」よりは「少しはわかった気がする」、「なんだか身につまされる」というようなところにとどまることのほうが多いでしょう。患者さんの気持ちがどうしてもわからない=「共感できない」ことも少なくありません。私たちが「わかった気がしてしまう」のも「身につまされる」のも、それは自分の「世界」に重なる範囲でしかないのです。もともと人の人生は言葉では語りつくせない広く深いものですし、だからこそ病むという最も個的な非常事態の場合、その人のことが「わかること」について、病者についての「類型」の役割はそれほど大きなものではありえません。重なる部分はあるけれど、広くはないのです。それに、「類型」に収まりきらないところにその人の思いが息づきます。

 カンファレンスで「あの言葉で患者さんは安心できたかな」と研修医に尋ねているという話もありました。でも、それは共感の教育というよりは患者操作の教育です。患者は操作するものだということを若い人たちに伝えてしまいます。患者さんは医療者の言葉によって「安心」を得るのだと思うとしたら、それは勘違いです。もちろん言葉のやり取りには共感を生み出す力がありますが、共感は言葉から始まるものでもないし、言葉が中心にあるものでもないと思います。それに、「共感」しようとして投げかけられた医療者の言葉は人の心をかき乱す暴力的なものともなりうることへの目配りが欠かせません。
 ある医療者の言葉が共感的なものとして受け止められるのは、その言葉が発せられるまでの、その医療者と患者さんとのつきあいの積み重ねによる地均しが必要です。人は、「共感してくれる人」ではなくて「共感的姿勢でそばにいてくれる人」の存在がうれしいのです1)。「共感的姿勢」でそばにいることに、「言葉」は中心的な役割を果たしません。
 きちんと挨拶ができること、感謝の言葉がきちんといえること、ていねいにお詫びができること。まず「黙って傍に居ること」、そして黙ってその人の話を聴くこと。どんな時も敬意を保ち続けること。相手の気持ちを気遣いながら、わかりやすい言葉で丁寧に話すこと。そして患者さんに丁寧に「触れる」こと。添える手の丁寧さが、私たちの思いを伝えます。手を介して患者さんの身の回りの世話をすることによって、患者さんの心が動き、その動きを感じてこちらの心が動きます(「間主観性」というのは、このような瞬間のことを言うのではないでしょうか)。共感とは、身体を介して生まれてくるのです。触れ合う関係を通して初めて生まれてくる言葉があります。言葉が滲み出てきます。そのようなつきあいの積み重ねがあってはじめて、言葉が生きます。私たちの心の動きが最後に「うまく」言葉に結晶化したとき、お互いが「共感」を実感します。言葉にも手触りがあり、「手触り」が柔らかくない言葉は私たちの間をただ通り過ぎてしまいます。このつきあいの積み重ねには、長い時間がかかることもありますし、ほんの1-2分のつきあいで十分なこともあります。
 このときの患者さんの「話」は、言葉のことだけではありません。表情や、手足の動き、目の光2)などのすべてですし、患者が「あえて語らなかった」「語ることのできなかった」言葉に思いを致すことも含まれます。言葉も、表情も、まばたき一つも、患者さんの存在の最も深いところから投げかけられているのですから、その「重さ」に耐える「体力」が私たちには必要です。
 村上靖彦は「身体感覚と情動が結合する」と言い、メルロ=ポンティは「わたしは知覚的経験によって世界の厚みのなかへめり込んでいる」(「知覚の現象学」)と言います。諏訪正樹は、「知覚や行動から思考がうまれ、それを言語化することが共感を育むとして『からだメタ認知』」という概念を提唱しています(「こつ」と「スランプ」の研究 講談社2016)3)

 ほんとうは共感できるはずがない。それなのに、患者さんの言葉や動作の何かが心に引っかかってしまうことがある、「わかった」と感じてしまうことがあります。自分のことのように迫ってくることがあります。そこで何かが心に引っかかったとき、そこから自分の思いをそっと一言口に出してみること。それだけできれば、あとは患者さんが医師の共感能力を育ててくれます。
 そこからだって、世界が広がることもあれば広がらないこともあります。「わかった」と感じて発した言葉に嫌な顔をされることもあれば、たった一言で涙が溢れることもあります(涙を流すのは、聞いた人のこともあれば言葉を発した人のこともあります)。自分の思いを口に出したとき、相手の反応はしばしば私の予測とはいくばくか違ったものとなります。相手の反応を見て、それに応じてそれぞれが言葉や態度を少しずつ変えていくことでつきあいが「展開」します。双方がその思いを自分の中で反芻していく時を共に過ごすことで、つきあいは深まります。シンボリック相互作用とは、私たちの普通のつきあいなのです。何も引っかからないこともあるけれど、その時はじっとしていればよいのです。

 教育者のすべきことは、こうしたつきあいの「場」を保障することです。つきあいの場を生み出すために、そっと一言を「口に出してみる」ように勧めることです。
 そのとき、若い医師へのアドバイスのポイントは、

① 「どうしても、わからない(共感できない)」「もう、いや」と思う事態も少なくないけれども、そのことは悪いことではないこと、
② そんなときでも関係を断ち切るのではなく最低限の回路を保つように努めること4)(そのときには、上級医と一緒に考えてみること)、
③ 共感した気がした時には自分の思いだけで突き進んでしまわないように立ち止まって自分の感覚を見つめ直すこと(reflection、critical thinkingとも言えそうです)、
④ そばにいることがつらい時には居続けなくてもよいこと

くらいではないでしょうか。
 これらのことを、はじめにまとめて説明するということではありません。状況に対応してアドバイスする時に心がければよいのです。そして、「共感」が生まれているか否かの判断は患者さんにしかできないということを、言い忘れないように。

 一言を口に出すには、少しばかりのテクニックが必要です。
 「歌はな、テクニックじゃないんだ。心だ。ただし、心で表現するためにはテクニックが要る」(「王様のレストラン」範朝の台詞) 歌も料理も医療も同じです。「心を教える」ことは「傲慢」でしかありませんが、心を表現するために必要な「テクニック」を伝えることには意味があると思います。医療面接演習やOSCEには、心を表現する「とば口」になりうるポテンシャルが十分あるのです(それが活かしきれていない現状はとても残念です)。
 「あさが来た」で、“あさ”は「人の気持ちを慮ることのできる優秀な頭脳と、やらかい心」さえあれば十分だと言います。「頭脳」という言葉が先に来たことには私は感心しました。人の気持ちを慮ることは、感情(柔らかい心)だけではできないのです。人の心は「情→知→意」という流れになると山鳥重が言っているように(「こころは何でできているのか」角川選書2011)、何かを見て心が動かされたとき、その感情の意味を、知識を踏まえて対象化し、新たな知識として自分の中で納得できたときはじめて、これからの活動についての意思が生まれます。心が柔らかくないと心は動かないのですが、肝心なのは「知」です。「感性の教育」は「感じられない人を、感じられるように作り変える」ために心に働きかけることではないのだと思います。人は誰もが、ある事態を見れば何かは感じるのですから、そこで感じたことの意味をとらえ返すことを可能にする知識をきちんと伝えることが教育です。
 「先入観を持たずに話を聞く」「先入観を持たずに人を見る」などと言われることがありますが、そんなことができるはずがありません。私たちは先入観なしには人と接することができません。「このような病状の人は、たいていはこうしたことを考えているものだ、こうした気持ちになるものだ」という先入観を持っていますし、その行動を予測しています。人のことは第一印象で判断しますし、ステレオタイプ=類型で見ています。それで、たいていの場合、ある程度はうまくいっています。(ただし、その「うまくいっている」のは表面的なレベルでしかないかもしれませんし、患者さんが医療者に合わせてくれているだけかもしれません。)
 だいじなことは、そもそもどのような先入観で患者と接しているのかという、自分の先入観の内容を自覚し、吟味することです5) 6)。それは、医療者としての「初心」に通じ、医療者として生きる基本的姿勢にかかっています。そして、自分の期待・予測から「ずれた」患者の言動に接したとき、その言動を非難したり矯正したりするのではなく、まずその「ずれ」を通して自分の抱いている先入観や認知の歪みを見つめ直すことです(非難してしまえば、それは「プロクルステスの寝台」7)になってしまいます。医者や教育者は、プロクルステスになりがちです)。知識が、そのことを可能にしてくれます。それは、「知的好奇心」を満たしてくれるはずです。大切なことは、「ずれ」を生み出さないようにすることではなく、「ずれ」を察知し、「ずれの意味すること」にこだわり続けることです。
 「ずれ」の意味するところを見つめ考察するためには、人間の心理や無意識、防衛機制、人間の取りがちな行動やありがちな認知の歪み(認知心理学や社会心理学)についての知識が欠かせません。そうした知識の支えがあってはじめて「患者のそばにいる」8)ことが可能になります。「感性の教育」「共感を育む教育」は、自分を対象化することに資する知識の教育です。
 こうして、先入観は上書きされます。一人の人間としての患者さんと「出会った」という体験がなければ、患者さんのそばに居つづけたという体験がなければ、上書きはされません。上書きされた体験のみが、経験として蓄積されていきます。その「数」は、受け持ち患者数と比例するものではありません。
 知識なのですから、伝えられるはずです。でも、伝える側がその必要性をほんとうに感じていなければ、伝わりません。そして、学生や研修医たちのその後の生き方への無条件の信頼がなければ伝わりません。若い人たちは誰もがきっと先に生きてきた私たちより素敵な感性をもっている、きっとこの経験をその後の人生を豊かなものにするために活かす力をもっている、というのはフィクションです。でも、このフィクションを信じて、そのフィクションと心中するくらいのつもりでなければ、教育にかかわっていても楽しくないと思います。そのとき「今の若い人は・・・」「ダメな学生」「困った研修医」というような言葉の出る幕はありません。
 もっとも私は、若い人たちを「できる」「できない」「資質がある」「資質がない」などと見分ける力が自分にはないとわかっているので、みんな「できる」「素質がある」人だと考えることにしているだけなのですが。(2016.08)

1) 「共感という言葉に値するのは、来談者の抱えた解決不可能な問題から、面談者が眼をそらさなかった時である」熊倉伸宏「面接法」新興医学出版社2002

2) 西村ユミ「語りかける身体 看護ケアの現象学」ゆみる出版2001

3)  そう考えれば、患者さんの身体や身の回りという生活空間に直接手を添えることを当たり前の日常としている看護師や介護士の「境地」に医師が辿りつくことは、絶望的なことのように思われる。もちろん、医師も診察や処置(小児科医は採血を含めて医師が行うことが多い)などで患者さんの身体に手を触れることはあるが、そこでは「身体感覚と情動の結合」を感じることがあったとしても遮断してしまいがちだし、もともとそのようなことを感じようとして患者さんに「触れて」はいない。「模擬患者による身体診察教育」の必要性を提唱する人が、「触れる」ことの意味について言及しているのを寡聞にして私は知らない。
 「他人の感情を顔の表情や体の動きから感じとるときには、意識しなくとも相手の表情や動きに自分の表情や動きが共鳴したり、『嬉しいんだな』とか『沈んでいるのね』というふうに、相手の感情を意識的にカテゴリー化したり、いろいろな心の機能が並行してはたらく。共感はこうした複雑な心のはたらきの産物であり、ミラーシステムは、共感のはたらきにかかわる脳機能のうちの一つと考えるべきであろう。」安西祐一郎「心と脳」岩波新書2011

4) 「『共感』を口にするよりも、共感できないと思い定めた後にどうふるまうかが、もっと大事。」鷲田清一「折々の言葉」2016.6.12朝日新聞朝刊

5) 「患者とはこういうものだ」というように一般化した言説は「危険」だと思う(私も講演では「患者さんは・・・・なんです」というようなことを言っているが)。病の体験は一人ひとり違うということだけではなく、病のさなかにあるとき人は言葉を失う。病気のさなかの気持ちは、西田幾多郎が言う「純粋経験」のようなもので言葉にまとめることはできず、言葉として書かれたものは、書かれた瞬間に現実とは乖離している。その言葉にならない蠢きを抱え込むことが「(病を)生きる」ということなのだろう。
 「もうあとは黙るしかない。言ってもなんにもならないから、時には言うだけ損をすることもあるから。言葉はいつも、つらさに遅れを取り、ぎこちなく、不釣り合いだから。言葉はつらさの質を変える。あいまいな叫び声を、はっきりと区切られた音に変えてしまう。こんなふうに捉まえてしまおうとすることが、すでに何か違うのだ。」クレール・マラン「私の外で」鈴木智之訳 ゆみる出版 2015
 そのことを覚悟したうえで、それでも、私たちはあるていど一般化した患者像を持たざるを得ない。それを「先入観」として持つことになるのだが、そのときには成書や患者の「体験記」にも一定の意味がある。私は、ヴァン・デン・ベルク「病床の心理学」、吉松和哉「医者と患者」岩波書店1987、得永幸子「病いの存在論」地涌社1984などから多くのことを学んだし(198でも触れた)、最近では上記したマランの「私の外で」はとても納得できた。そして、何よりも自分が出会った一人一人の患者とのつきあいを通して、私たちは自らの先入観を編み上げていく。

6) J.トラベルビーは、病人を他人として知覚しそこなうこととして、「ステレオタイプ・先入観、意味の水準を認識しそこなう、聞き間違い、軽々しく価値的な言葉を使うこと、決まり文句と自動的返答、告発・避難・いびり、中断しそこなうこと」などを挙げている。「人間対人間の看護」医学書院1974
それももちろん一理も二理もあることなのだが。

7) ギリシア神話に出てくる追いはぎのあだ名。メガラからアテネに通じる道の途中にいて,大小2つの寝台をもち,旅人を捕えると,大きい者は小さいほうの寝台に,小さい者は大きいほうの寝台に寝かせ,寝台の大きさに合せて足を切ったり引き伸ばしたりして殺していたという。

8) 「安心は、看護婦が『そこにいること』だけである程度与えられる。・・・対抗メカニズムが働く道筋を研究することで・・・・患者の病的な症状にまきこまれることなく、あるがままの患者を受け入ることができる。看護婦のがわの無条件の関心と受容は、観察の本質的要素の一部分であり、看護婦にとって患者の理解と彼の成長を促すための基盤となる。」H.E.ぺブロウ「人間関係の看護論」医学書院1973

コミュニケーションのススメ 日下 隼人 コラム

● 本コラムの内容は、著者 日下 隼人の個人的な意見であり、マイインフォームド・コンセントの法人としての考え、および活動に参加しておられる模擬患者さんたちのお考えとは関係ありません。

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