No.429 ポリティカル・コレクトネス(1)
コラム目次へ 一人の人間が「生きる」ことが阻まれるという不条理に対して異議を申し立てること/行動すること、つまりポリティカル・コレクトネスは社会を良くしていくために欠かせないと思います。
声を上げる権利は、当事者にも当事者でない人にもあります。
「病い」「障害」は人間にとって不条理なことですから、医療に関わる人間には不条理に憤る感性、声を上げる姿勢が欠かせないと思います。
一方で、ポリティカル・コレクトネスのことを「鬱陶しい」と思う人たちがいます。
現状に満足している人、現状からの利益を享受している人、現に一人の人間が「生きる」ことを阻んでいる人の中に、それを「鬱陶しい」と感じる人たちがいることは当然です。その構造に、自分の暮らしの中の「特権=自動ドア」に気づいていないということです。
でも、それだけではないと思います。ポリティカル・コレクトネスを主張する「雰囲気」に「鬱陶しさ」を感じてしまう人もいるのではないでしょうか。
異議を発することには、自分は正しい位置にいるという感じが付きまといます。異議の申し立ては、その異議の問いかけを自分の方にも向けて問いかけることなしには危ういのです。
ポリティカル・コレクトネスを主張する自分を正義の立ち位置に置いた/他責的な言い方をしてしまう感覚は、論理的な思考や自己を見つめることを妨げます。そうした言葉の雰囲気になじめない/傷つく人の繊細さへの心配りは欠かせないと思います。
作家の星野智幸さんが、自らを振り返って次のように言っています。(朝日新聞2024.8.27 オピニオン&フォーラム「言葉を消費されて」)
「それで理解に至ったのである。リベラルな考え方の人たちは、「正義」に依存しているのだと。
リベラルな考え方に理があるかどうか、現状に即して公正かどうかという判断と、リベラルな思想は「正義」であって絶対的に正しく否定されることはありえない、という感覚を持つことは、まったく別の問題である。自分を含めリベラル層の多くが、じつは後者を求めていると私は気づいた。
・・・・リベラルな思想は疑う余地のない正しさを備えていて、そのような考え方をする自分には否定されない尊厳がある、とリベラル層は思いたいのである。いずれも(註:国家主義者とリベラル層)、普遍の感覚によって自分を保証してほしいのだ。
・・・・個人を重視するはずのリベラル層もじつは、「正義」に依存するために個人であることを捨てている。・・・」
鶴見俊輔さんの言葉。
「倫理を考えるとき、一つの正義の大道があり、その道を自分は歩いていると考えることにはあやうさがある。正義を疑いなく信じる正義家を、私は信じない。そういう人になるべく近づきたくない。仕方なくともにあゆむことがあっても、その人に心をひらきたくない。」(「倫理への道」『倫理と道徳』岩波書店1997所収)
「正しい答えは一つしかない、その答えをオレは知っている・・・という姿勢はない。自分はこの歌が好きです。きみはどうかという姿勢です」。(『随想』太郎次郎社1984)
「何びとも自分自身が正しいと思い始めたときが、その人の堕落の始まりであると思います。私たちはいちどは自分自身に対して抱いている自信を放棄し、自分自身に絶望する勇気をもたなければならないと考えます。それがとりも直さず自分自身にたいする誠実であり、またすべてのひとびとにたいする誠実であると考えます。」(石原吉郎『海を流れる河』花神社1974) (2024.12)
日下 隼人