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No.325 「残念ですが・・・」

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 成人したダウン症のお子さんと一緒に買い物をしているご両親をデパートで見た時(最近では珍しいことではありませんが)、「たいへんだな。これまでいろいろなことがあったのだろうな」と一瞬思い、そう感じてしまう自分にあらためて戸惑いました。
 生まれてきた新生児がダウン症であることを両親に説明するときに「残念ですが・・・」といった言葉で始めない配慮が必要であるとアメリカの医師が提言しています(二階堂祐子「出生前診断および出生後告知の現状と医療者への助言」玉井真理子編『出生前診断とわたしたち』生活書院2014所収)。
 患者さんに病名や病態についての初めての説明を、「残念ながら」「お気の毒ですが」「良くないお話なのですが」「嬉しいお話ではないのですが」といった言葉から始めることはありがちなことです。なんの「枕ことば」もなく唐突に「怖い病名」を告げられ、講義のように淡々と疾患について説明されたらたまったものではありませんから、なにか「もっともらしい」言葉から始めるしかありません。
 先天的な疾患の場合に限らず、「病気です」「負担の大きな治療が必要です」「完治はしません」「いまの(悪い)状態がずっと続きます」「他の人と同じような生活ができるようにはなりません」「長くは生きられません」と言わざるをえないような事態にある患者さんについて、「残念なことだ」と思い「気の毒だ」「たいへんだろうな」という気持ちが湧いてくるのは、「自然」なことです(「気の毒」「たいへん」な状況を作ることに自分も加担していることついて自覚するかどうかは別にして) 1)。だから、「残念ですが」という言葉はなにげなく出てきますし、その底には当事者への同情が流れています(ルソー「憐れみ」です)。「残念ですが・・・」といった言葉で始めないように「配慮」するということは、その「自然な気持ち」の流れを多少なりとも逆流させるということです。

 私たちは自分の生きてきた道程や多数の人が生きている世界のありようを「正常」と考えてしまいがちです。少数の人やなんらかの障害がある人のことを「異常な人」「劣った人」とつい思いますし、「かわいそうな人」「護ってあげるべき人」だと思います。このようなときに「手を貸してあげたい」という気持ちの湧かない人は稀ですし、そのような心の動きがなければ医療者にはなりえないでしょう。
 でも、「護ってあげよう」という思いは「施し」の姿勢であり、「見下ろし」があります。「異常な人」「劣った人」という目は、もちろん相手を見下ろしています。「施す」という心持ちは、護られる立場の人の「かわいさ」「従順さ」「禁欲的生活態度」「感謝」を心の奥では求めてしまいます。だから、護られる立場の人の「かわいげのなさ」「反抗的態度」「放縦・贅沢」「無礼」などは非難されがちです。生活保護の受給は権利なのにもかかわらず、受給者はこのような視線にさらされ続けます。医療の場はこのような雰囲気に満ち溢れているので、医療者はしばしば自分の意に添わない患者のことを悪しざまに語ります。
 こう考えてみると、「かわいそうな」人に同情し「護ってあげたい」と思うことと、「障害者には生きる意味がない」「LGBTには生産性がない」というような言葉とは表裏を成していることに気づきます。障害者や少数者(性、国籍、人種、出自、性的傾向など、最近ではベビーカーに至るまで)に対するヘイトスピーチを語る人たちがおり、そのヘイトスピーチを批判する人たち(私もその中に入っているつもりです)がいます。でも、もともとはどちらも同じ平面にいるのです。「護ってあげたい」という気持ちは抱き続けるけれど、その自分の「目が高いこと」に居心地の悪さを感じる人もいれば、そのことが自分の安堵感の根拠2) となっている人もいるでしょう。そこから道が別れます。
 「自然な気持ち」「正常—異常」の内実を問い続け、「人権」や「多様性」の尊重される社会を一歩一歩作ってきた歴史こそが、人類の叡智の証だと言えないでしょうか。それはまた民主主義の根底です。
 私たちが取り込まれている「正常-異常」のありようについて居心地が悪くなりだすと、「異常」と言われる事態にある人たちとの関わりにsensitiveにならざるをえません。私たちは無意識のうちに「異常」とされる人の人生を狭めてしまいがちなのです 3)。「残念ですが」という言葉で始めないように配慮するということは、そうした言葉の生まれてくる根っこを見つめることが促されているということです。
 自分の目の高さに気づいてしまうと、「自然な気持ち」の流れのままにヘイトスピーチを語る人たちを責めたくなるのもまた自然な気持ちの流れです。けれども、もともとどちらも同じ平面に生きていて、そこから「ちょっとした」思いの違いで道が正反対に別れたというところで、ヘイトスピーチを話す人たちのことを見ていきたい。容認は絶対にしないけれど、怒りをぶつけるだけでは相手の世界に堕してしまうしかありません。「生産性がない」「生きている意味がない」という言葉には「それが、なにか問題ですか?」と、「障害」という言葉には「できないことがあることで、困るのは誰なのですか?」と、やさしく言い返せる力を持ち続けたい。

 病院に勤めていたころ、ダウン症のS君のお母さんは、S君の外来受診の際いつも私を指名してくださいました。S君が気管支炎になった時にたまたま診察したのがはじめての出会いだったのですが(1歳になっていませんでした)、そのときに私は「ダウン症だから」という言葉を避けて、「S君は、他のお子さんより少しだけ病気が治るのに時間がかかる体質かもしれないので、ていねいに診させてください」とお話ししました。そのことが指名していただくようになった理由かどうかはわかりませんが、その時たしかにお母さんの表情が変わりました。No.322で柳澤秀夫さんの「(癌という言葉を)文字として見ることも嫌でしたし、言葉として聞くことも嫌」だったという話を書きました。私が「あえて」ダウン症という言葉を使わなかった気持ちは伝わったのかもしれません。
 けれども、もちろんこれは「手柄話」ではありません。このような出会いができたのは、それまでに「ダウン症」という言葉をはっきりと言い、その病態についてていねいに説明していた(そのことは絶対に必要なことです)医師のお蔭です 4)。もし私がずっと一人で診ていたとしたら、うまく「切り替え」が出来ていたかどうか心もとない限りです。(2019.06)

1) 出生前診断が広まるにつれ(中国に検査を出すなど、水面下の動きもあるようです)、妊娠中絶が増え、結果的にダウン症候群の出生がかなり減っているとのことです。ダウン症は先天性心疾患を合併することが多いのですが、結果としてそうした症例が減少し心臓外科医の経験する機会が減って「困っている」という話も耳にしました。幾重にも気が重くなるばかりです。

2) 最近の児童殺傷事件についての「まともな人ならこんなことが出来るはずがない」と言うテレビのコメンテーターのように、安堵感を手にするためにこうした言葉で早々に自分を「まともな」人間の範疇に入れようとする人は少なくありません。

3) 毎年春になると「1年生になったら」という歌がテレビで流されます。でも「ともだち100人できるかな」という言葉に傷つく人もいるのです。自分のこどもが他の子どもとうまくコミュニケーションが取れないことに悩む親たちにとって、この歌詞は決して楽しいものではありません。女性に「彼は居るの?」と尋ねること一つにも、多くの差別と抑圧が孕まれています。私は結婚式のスピーチで「(早く)赤ちゃんを・・・」というような言葉は絶対に言わないようにしていました。

4) 自分の力でできることなどほんのわずかしかないのです。自分と意見の合わない人がいてくれたから自分が成長できた、自分と「合わない」人がいてくれたお蔭で周囲の人と親しい関係が作れたといったことは日々経験することです。医療や教育の世界ももちろん例外ではありません。

コミュニケーションのススメ 日下 隼人 コラム

● 本コラムの内容は、著者 日下 隼人の個人的な意見であり、マイインフォームド・コンセントの法人としての考え、および活動に参加しておられる模擬患者さんたちのお考えとは関係ありません。

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