No.314 ACPを語ることについて(2)
コラム目次へ 「一般の皆さまには、蘇生や延命治療が必要になったときにそれらを希望するか否か事前に話し合ってほしい。医療者の皆さまには、患者さんと事前指示・ACPを話して患者さんの価値観に沿った医療を提供してほしい」とも、放送を案内する医師のメールに書かれていました。
でも、患者や家族が事前に話し合うための情報はどのように提供されるのでしょう。医療の言葉は通じませんし、シロウトには「蘇生や延命治療が必要になったとき」を具体的に思い浮かべることも出来ません(身近で見たことがあっても、それはそれだけのこと)。そもそも「蘇生や延命治療が必要になったとき」という一般的事態があるわけではなく、実際に起こる状況は多様で、事前の想像を超えています。
患者に与えられる情報は、医療者の恣意を免れず、「医療費抑制」や「社会的正常」といった政治性を帯びています。さまざまな情報が「生権力」を強化し、その思考からは医療者も患者も免れていません。そのような状況の下で話し合いが行われて、患者の「意向」が表明され記録された瞬間、それが患者の「希望」と言われ、「患者の自己決定」という呪縛が患者をがんじがらめにします。インフォームド・コンセントがしばしば強制的同意以上でも以下でもないものになってしまいがちな現状は持続するでしょう。
「決定はいつでも変えられます」と書いてあるからといって、毎日決定を変える人に真剣に付き合ってくれる医療者は稀です(「問題患者」とされてしまうでしょう)。「賢い患者」というような言葉が、こうした仕組みに取り込まれてしまうことを加速する可能性は小さくないと思います。「おりこうさん」であらねばならないというポジションに早々に見切りをつけることを、患者の生きる権利として確保しておくことの方がずっとだいじだと私は今思っています。「おりこうさん」でいようとすると、「自分はしてほしくないのに、なぜ親に延命治療をするのか」(No.254 註)といった「論理的な攻撃」に勝てなくなります。患者に論理的整合性を求めることの残酷さに、医者は鈍感です。
「『何もしない』って、本当に何もしないんですね。たしかに私たちが選んだことだけれど、心臓マッサージもしてもらえなかったんですね」とあるご家族が言われました。連絡を受けて病院に駆け付けた家族が見たものは、個室に「放置」されていた亡骸でした。もちろん医療者は誰もそばにいませんでした。「DNRを選んだのだから心肺蘇生などの処置は何もしない」と医療者は思いますが、家族は「器械をつないで延々と治療することはないけれど、最後まで一生懸命医師が何かをしてくれるだろう。『何もしない』と言っても家族が集まるまでは蘇生処置くらいはしてくれるだろう」と考えています。家族は、手を握り見守る中で、親しい人の死を宣告されたいと思います。(この話はNo.93でも書きました。)
福島県立医科大学整形外科の元教授・菊地臣一さんは常々学生たちに礼儀作法について教育をしていたのですが、ある時、女子学生が涙ながらに「先生の言う事がはじめて判った」と話しに来たことがあったそうです。「自分のおばあさんが真夜中に亡くなった時に、当直医はジーンズで素足にサンダルを引っ掛け、Tシャツで白衣の前をはだけ、聴診器を首に下げ、不機嫌そうな顔できたそうです。その時に自分の両親や自分は本当に情けない思いをし、人間の人生としての終わりに立ち会うのにこのように尊厳を犯す態度は許されるものだろうかと憤ったとのことです。患者の立場になってみればすぐわかることが、『する側』にいては中々見えないのです。」(菊地さんのブログを簡略化して引用しました。)
「尊重すべき患者さんの価値観」を医療者はどのように知ることが出来るのでしょう。そもそも患者さんの価値観は、信頼できる医療者と患者さんとが関わる中で生まれてくるものです。お互いが信頼しあえる関わりが積み重ねられていないところで書かれたACPや結論は倫理とは縁の薄いただの手段でしかありません(No.298でも書きました)。
医療倫理の第一の課題は、私たち医療者が患者さんに信頼される存在になるような関わりを作り上げていくことがどのようにすれば可能かということです。「白衣を着ているだけで無条件に信頼されるはずだ」というのは錯覚です。
患者さんから信頼され、人生について話し合う時に、私たちは「人間の尊厳とは」「無駄・無益・意味のない治療とは」「医療費とは」「自己決定・自立とは」「家族とは」、そしてそもそも「人生とは」という問いを自らにむけざるを得なくなります。それが、臨床倫理の第二の課題です。
そして、患者さんがある医療者に深い信頼感を抱いたら、その医療者の考えに多少のなりとも同調していくことになるでしょう。それは誘導ではないのか、そこに生じるジレンマと対峙することが、臨床倫理の第三の課題です。
私はACPが好ましいか好ましくないかを論じているのではなく、その語られ方が気になっているのです。死に行く人々を睥睨し、人の死を一つの方向に誘導する人間を、病気の当事者が信頼していても大丈夫なのでしょうか。「どんなことをしてでも、どんな状態でも、最後まで人の命を守ろうとする姿勢」を「無理に生きさせようとする」と貶め「倫理的でない」かのように論う人、「自分の死について考えないという選択」を認めてくれない人を、信頼していても良いのでしょうか。ACPを進める多くの人たちの言い方に、その言葉が「病院で身内を送った」人たちの「苦しみながら選択した」過去への思いを深く傷つけるものであることへの躊躇いが感じられないのですが、それでよいのでしょうか。 (2019.01)
付記
この原稿を書いた後に、雑誌「文學界」2019年1月号での古市憲寿と落合陽一の対談で「高齢者の最後の1ケ月間の延命治療を打ち切れ」「延命治療を保険適用外にせよ」といった議論が交わされ、それに対して批判が巻き起こっていることを知りました。でも、こうした言葉はACPの下心(の少なくとも一部)と通じているのではないでしょうか。「社会保障費を削れば国家の寿命は伸びる」とも言っていますが、そのような国に「延命治療」をおこなう価値があるのでしょうか。
あるツィートに「親戚が倒れて意識不明&呼吸停止状態で病院に担ぎ込まれた。医者から『意識が戻らない可能性が高いから延命治療はやめといた方が良い』みたいな事を言われたんだけど『以前はこういう治療をしてもらった』みたいなことを必死で説明して、延命治療をしたところ、翌日意識が戻り1週間ほどで退院に至った」とありました。事実関係については確認しようがありませんが、このツィートのような気持ちで医療を見ている人は少なくないのかもしれません。