メインビジュアル

No.403 患者さんへの敬意

コラム目次へ

 温かい医療のために欠かせないのは「患者さんへの敬意」だと私は思います。敬意を見失った医療者は傲慢/「自己中」になるしかありません。
 敬意を表すために敬語は欠かせないので、「何はともあれ、敬語で話してください」と私は言い続けてきました。形が心を生むからです。でも、心から相手に敬意を抱き続けていなければ、敬語で話す習慣は身に付きません。それどころか、臨床の現場にいればいるほど、敬語を使わなくなりがちです。「する側」の論理と「してあげる」「医療を施す」という思い(上がり)が、心を蝕んでいきます。
 患者さんは、医療者の人生のある時期を一緒に歩く友人であり、同時に、医療者が、知識を深め、技を磨き、人生のことを学べるように、心と身体を提供してくれている先生です。そう思い定めれば、医療におけるサービス・接遇はおのずと生まれます。友人であり先生である人に接する態度と同じです。

 患者さんへの敬意は、言葉(=敬語)だけで担いきれるものではありません。一般的な「相手の人格の尊重」というだけのことでもありません。
 患者さんは、病気という人生ではじめての(何度同じ病気になっても、そのつど初めてのことです)荒波に翻弄されながらも「果敢に」一人で立ち向かっています。うろたえたり、取り乱したり、オロオロしたり、怒ったりすることも、すべて「果敢に」立ち向かっている姿です。そして、病むことの「つらさ」「苦しみ」の奥には、これまでの人生の「つらさ」「苦しみ」があります。
 そんな人の生きる姿は、どれも「すごい」のです。敬意とは、病を得た人がその状況を生きている姿を目にして自分の卑小さに慄くことからしか生まれないと思います。敬意をもってつきあうとは、患者さんの生きる姿に真正面から向かい合い、その人生の「すごさ」に圧倒されながら接していくことです。

 目の前の患者さんが病むという事態は、医者には経験できない事態です。もともと医者は、その患者さんの人生という世界をある一方向からしか見ておらず、その人生の流れのほんの一部分をそばで過ごしているだけです。患者さんの広大な世界は、敬意なしには私たちには見えてきません。
 医学知識を背にした立ち位置からは、患者さんの人生を虚心に見ることができません。あるいは「すごさ」に圧倒されて「目を逸らす」ことになります。ここで「目を逸らす」ことは、患者さんの人生に伴走することを放棄することです。もう人生を学ぶことはできません。
 たとえ、医者がその患者さんと同じ病気をしても、医学知識を持っており同じような病気の人を何人も見てきた医師の体験は、患者さんの体験とは別のものです。若くして人生を終えざるを得なくなった人や、若い時から慢性の病いや障害を抱えて生きざるをえない人の気持ちは分かりようがありません。
 医者は「患者の気持ちはわからない」まま付き合っていくしかないのです。そのとき患者さんへの敬意がなければ、患者さんと私たちをつなぐ途を開くことはできません。そのことを自覚すれば、敬語や礼儀作法は必然的についてくるはずです。

 「苦悩する者としての患者は、医師に対して何らかの形で優れている」(V.E.フランクル『死と愛 実存分析入門』みすず書房1983)。いや、きっとすべての形で優れているのです。患者さんの人生が小さく見えだしたら(自分の人生が患者さんの人生よりずっと小さいものだと感じられなくなったら)、もう赤信号です。患者さんと付き合うということは、そのことを深く心に留めることです。それを伝えるのは、医学教育/研修医教育の仕事です。(2023.04)


日下 隼人

コミュニケーションのススメ 日下 隼人 コラム

● 本コラムの内容は、著者 日下 隼人の個人的な意見であり、マイインフォームド・コンセントの法人としての考え、および活動に参加しておられる模擬患者さんたちのお考えとは関係ありません。

● コラムNo.230 までは、東京SP研究会ウェブサイトにアクセスします。