No.392 言葉が奪われている
コラム目次へ 患者さんや家族は「かわいい患者」と思われるように心がけています。誰でも、関係が悪くなると自分が不利になるような相手とは、自分が「良く思われるように」付き合おうとします。そのために、とても慎重に言葉を選びますし、言葉を控えます。言いたいことのきっと数%程度しか話しません。
中には、居丈高に接してくる患者さんもいます1) が、そのような人は、このような形でしか「自分に、良くしてほしい」という思いが表せないのです。
自分の思いがうまく言葉にまとめられない人は少なくありません。そもそも、病気の不安や混乱の中で、自分の思いをうまくまとめることは容易ではありません。うまくまとめられても、医療者の前に出ると話せなくなりがちです。圧倒的な力関係の差のあるところでは、どんなことでも話すこと自体に大きな勇気が要ります。病気になって気弱くなっているのに、勇気は出ません。
医療者から何か恐ろしいことや分からないことを言われるのが怖くて、言葉を控えることもあります。事態が深刻なものであることをあらためて思い知らされるかもしれません。聞きたくない言葉を、何度も何度も聞かされることになるかもしれません。
もともとうまく言葉を紡げない人や、人と会話することが苦手な人は、言葉で思いを表すこと自体が難かしい。言葉が紡げないのは、認知「能力」によることもありますし、その人の社会経験の多寡や性格によることもあります。言葉を紡ぐ力を身につけられない環境で育ってきた場合もあります。誰もが自分の人生、自分の考えを言語化できるわけではありません。「言葉を奪われている」2) と言うこともできると思います。
それでも、何かを言わないわけにはいきません。「はい」「分かりました」という言葉で医者の言葉をやり過ごすことは少なくありません。そうした言葉で医者との関係を良くしておこうとする方策は「有効」でしょうが、「分からない」ままの状態からは抜けられません。
混乱した思いのまま、とりあえず思いついたことや、何か気になっていること、どこかで(テレビや知り合いの言葉など)見聞きした言葉を、小出しに言う人もいます(だから、医療者から見ると「的外れ」な言葉になりがちです)。その言葉に丁寧に応えてくれる医療者は増えましたが、その医療者の言葉は患者さんの不安の核心には届きません(応え方が良ければ、それなりの「信頼」は生まれます)。
家族の間では、医療者の言葉を受けて、その真意を想像しながら会話が交わされますが、科学的・論理的な会話は少なそうです(医療者が聞けば「呆れるような」会話がしばしば繰り広げられています)。家族同士のいろいろな思惑が交錯します。医療者や関りのある周囲の人への「気配り」が優先されることもあります。私的なセカンドオピニオン(知り合いや本やSNSや・・・)が求められています。信仰が優先することもあるでしょう。
患者さんの言葉は、こうした背景の上にかろうじて絞り出されます。言葉は幾重にも奪われているのです。そのような人と対峙しているという自覚を医療者は持っているでしょうか。患者と医療者が対等ではないことは十分わかっているはずなのに、こんな時だけまるで対等であるかのように、患者の言葉を「処理」していないでしょうか。
だから、アドボカシー(擁護・代弁)が大切だと言われそうですが、そうでしょうか。整った言葉で語れる人が代弁してくれることで、「言葉を奪われた」人は「救われる」でしょうか。むしろ、言葉は二重に奪われ、他人によって言語化される(ということは、言語化できない多くのものが捨象されたということです)ことによって、いっそうその人は「圧迫」「疎外」されてしまうのではないでしょうか(とりあえずは、代弁してくれたことを感謝するしかないかもしれませんが)。子どもの意見のアドボカシーというのも、似たようなものだと思います。
「ぼくは、自分が参考にする意見としては、『よりスキャンダラスでないほう』を選びます。『より脅かしてないほう』を選びます。『より正義を語らないほう』を選びます。『より失礼でないほう』を選びます。そして『よりユーモアのある方』を選びます。」(糸井重里2011/04/25)という言葉を読んで、確かに私自身そのようにしているところがあるとは思いました。でも、この言葉は、やはり言葉を自由に操れる「力」を持った人3) の言葉であり、この言葉にも人を「脅かす」力があります。
どこかに良い解決策があるわけではありません。私たち医療者がつい見ないようにしていることから「目を逸らさないで」としか言いようがありません。
先日、親しい人から現在受けている診療についての相談を受けた時、何度も「どうして、それを医者に訊かないの?」と言いたくなるのを我慢して、そこであらためて感じたことを書きました。(2022.04)
1) 平井秀幸さんは「深慮主義」が蔓延していると指摘しているそうです。「多様性が理解され始めてきているように見えるけれど、それは深慮出来る人に限られている。けんかっ早い人、暴力的な言動をする人が真っ先に社会から排除される。深慮主義から落ちこぼれる人が障害化されていて、そういう人たちが刑務所に集中し、隔離されている」(『刑務所処遇の社会学』世織書房2015/熊谷晋一郎「液状化した世界の歩き方」『私の身体はままならない』河出書房新社2020所収 からの孫引きです)。トーンポリシングも同じです。「深慮」ということだって、言い方をかえれば「小うるさいやつ」ということで、決して褒め言葉ではないと思いますが。
2) これは、暮らしの次元での言葉が「奪われている」ということです。そのような人生を生きてきている人はいっぱいいるのです。ちなみに、医学の言葉は「奪われる」以前に、はなから別世界の言葉です。
3) 言葉で自分を構成することのできる人、自分の思い(思想、観念)を整理して語れる人のことです。ということは、嘘でももっともらしく言いくるめることができる人、他人を言葉で「支配」できる人ということでもあります。医療者は、間違いなく「言葉を奪う」側の人間です。難解な医学知識をわかりやすく説明することは必須のことですが、わかりやすく説明できること自体に、その専門家はシロウトとは別世界の人であることを思い知らされ、そのことに胡散臭さがつきまといます。こうしたことがコミュニケーション教育で語られているでしょうか。
次回から隔月に掲載します。
日下 隼人