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No.295 畑尾正彦先生を偲ぶ

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 昨年9月、医学教育学会名誉会員の畑尾正彦先生がお亡くなりになりました。医学教育の関係者で畑尾先生の薫陶を多少なりとも受けなかった人はいないのではないでしょうか。
 とはいえ、私は1977年に武蔵野赤十字病院に勤務して知り合いましたので、畑尾先生はまず外科医でした。小児外科の手術もたくさんお願いしました。先生の手術は美技と言うべきもので、私の家族や親戚が手術を受けなければならなくなった時には、一も二もなく先生にお願いしました。

 はじめて親しくお話しさせていただいたのは、先生の論文を読んで「ふつうの論文では見かけない言葉がすてきでした」と感想を申し上げた時だったと、後日先生から言っていただきました(私は、すっかり忘れていました)。あらためて読み返してみると、「(急性腹症の診断を可能にするのは)様々な訴えや徴候を見せる患児の刻々の変化を的確にとらえる判断力である。それは、細やかな観察、論理的な思考、温かな思いやりに基づく一般診療の基本に徹して初めて達せられよう」(小児科19巻2号1978)とあり、その「温かな思いやり」という言葉に目が惹かれてのことだったと思い出しました。
 そのような会話があったからか、1980年には畑尾先生が中心となっておられた武蔵野赤十字病院の全面改築工事のコアメンバーの一員に引き入れていただきました。先生の文字通り並外れたご尽力の結果、木造の建物の多い古色蒼然とした病院は、患者さんへの「温かな思いやり」に満ちた最新の病院に生まれ変わりました。このとき仕事をご一緒したことで、先生の「緻密さ」と「温かな気くばり」、「粘り強さ」、そして「頑固さ」も知ることになりました。
 先生のお勧めで「小児患者の初期診療」という本を私が出したときには、その草稿をお読みいただき、患者さんのことについて「させる」という言葉の使用を厳に慎むようご指導いただきました。その教えは今も私に染みついています。
 先生は1994年、武蔵野看護短大の教授として病院をおやめになりましたが、同一敷地内のことでしたし、しばらくの間は外来もなさっておられましたから、おつきあいはさほど変わらず、私は相変わらず困ったことや分からないことがあるとすぐ先生のお部屋にお邪魔して相談に乗っていただいていました。そのつど納得できるアドバイスがいただけたことはもちろんですが、お話しする時間が楽しかったので、お部屋の真ん中に山のように積み上げられた書類はどのように整理されるのだろうと案じながら、ついつい長居していたものです。が、先生が東京を離れて秋田赤十字看護大学に赴任されるときにはいい年をして心細くもなってしまいました。

 時が前後しますが、私が医学教育学会に入ったのは1991年のことでした。畑尾先生が医学教育に熱心に取り組んでおられることはかねてから知っていたのですが、長い間「医学教育学会は胡散臭い」と思っていた(今でも思っています)私は、近づかないようにしていました。しかし、20年近く臨床医を続けてみて「自分が納得できる診療をすることができても、それだけでは自己満足にすぎない。自分の実践を検証し、さらに若い人たちに自分の思いを伝えるためには、教育に関わらなければ」と思うようになりました。そこで、それまでの態度を豹変して「医学教育学会に入りたい」と先生にお話ししたところ、「お、やっと入ってくれるか」と嬉しそうな顔をして下さいました。
 それからの先生のお導きがなければ、今日まで私が医学教育と関わり続けることはできなかったに違いありません。1999年に私は武蔵野赤十字病院の研修医教育の責任者となりましたが、その後の13年間、私は畑尾先生が病院の研修委員長として敷いてこられたレールを踏み外さないようにとひたすら心がけてきました。武蔵野赤十字病院の臨床研修について世間から一定の評価をいただいているとしたら、それはひとえに先生がコツコツと創り上げてこられたものに対してなのです。

 21世紀になってからは、タスクフォースとして臨床研修指導医養成講習会を40回以上ご一緒させていただきました。先生が持参される膨大な量のOHP (USBの時代になると外見からはそのすごさが分からなくなってしまいました) が宝の山だということは、広く教育学や哲学にまで及ぶ先生のコメントから伺い知ることができましたが、ついにその全貌を見届けることはできないままになりました。講習会でも先生の「細やかさ」「緻密さ」「厳密さ」に圧倒されましたし、「教育への熱意」が沸々と伝わってきました。が、そのためもあってか、意外にも(?)先生の怒りの沸点は決して高い方ではないこともわかり、そばでハラハラすることも少なくありませんでした。それで、私自身タスクフォースとしてコメントを言った後には、つい先生の顔色をチラッと見る習慣がついてしまいました。最近ではご一緒しない講習会も増えてきましたが、それでもどこかで先生の顔を探している自分がいます。先生がお亡くなりになった直後の講習会で、コメントする私の口調が先生のそれに似てきた気がして、少し驚いてしまいました。先生にとって私はずっと不肖の弟子であったことは間違いないのですが、こんなふうにこの先もまだまだ畑尾先生とご一緒させていただけそうだと思っています。

 ある時、模擬患者の活動について「自分の(医学教育学会での)立場でできるだけのお膳立てはしたから、この先どのように道を切り開くか、あとは模擬患者さんたちの仕事だ」と言われたことがありました。その言葉に、畑尾先生は模擬患者の活動にも教育的姿勢を崩さずに接しておられたのだと思いました。教育とは、何もかも「指示」することでもどこまでも「支持」することでもなく、相手の未来を信じて、その未来に向けて自分の思いを手渡し、あとは離れたところで見守り続けていくことなのだと思います。ケアもきっと同じです。最近、多田富雄さんの本を読んで、あの時の畑尾先生の言葉を思い出しました。「それ(歩行訓練)をくり返していたある日、(療法士の)Kさんがすうっと手を離し、私のところからいなくなった。不安で身がすくむ思いだった。しかし、介助なしで自分が歩いていると知った時、私は新しい経験をした。」(多田富雄コレクション3「人間の復権」藤原書店2017)
 私にとって畑尾先生は、「師」と言うには親しすぎ「友」と言うには高すぎ、でも「同志」でもある、そんな存在でした。(2018.04)

コミュニケーションのススメ 日下 隼人 コラム

● 本コラムの内容は、著者 日下 隼人の個人的な意見であり、マイインフォームド・コンセントの法人としての考え、および活動に参加しておられる模擬患者さんたちのお考えとは関係ありません。

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