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No.386 聴かなくても大丈夫?

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 2021年4月から研修を開始した研修医は、改訂(見直し)されたシステムで研修を行っています。今回の改訂では、「研修終了時、研修医が修得していることが期待される能力(コンピテンス)」として9つのテーマが挙げられ、それぞれについての評価基準も示されています。その一つが「コミュニケーション能力」1) で、一般目標は「患者の心理・社会的背景を踏まえて、患者や家族と良好な関係性を築く」とされており、更に研修終了時点に到達すべき目標(評価基準)として以下の3つが書かれています。

「適切な言葉遣い、礼儀正しい態度、身だしなみで患者や家族に接する。」
「患者や家族にとって必要な情報を整理し、わかりやすい言葉で説明して、患者の主体的な意思決定を支援する。」
「患者家族のニーズを身体・心理・社会的側面から把握する。」

 一読して、曖昧模糊とした文章に戸惑い、「どうして『聴く』という言葉が入っていないのだろう」と不思議に思いました。
 曖昧模糊としているのは、具体的に見る(指導する)べきポイントが明記されていないからです。これでは、どのような評価も可能になります。指導項目を細かく明記すれば、指導医たちは読まなくなってしまうだろうという危惧から、このような形になったのかもしれませんが、明記されなければ指導しようがありません 2)
 「聴く」ことについては、この目標が作成されるときに(ワーキンググループのメンバーをみても)議論が全くなかったとは思いにくいのですが、だとしたらいっそう事態は深刻です。あるいは、「患者や家族にとって必要な情報を整理」し「患者家族のニーズを身体・心理・社会的側面から把握」するためには「聴く」ことが欠かせないと考えてのことだったのでしょうか。「聴く」ことは医学生レベルで修得しているはずで、「できない人が居るなどということはあり得ない」と考えたのでしょうか。でも、書かなければ「聴く」ことが基本だと思わない研修医が出現するかもしれませんし、「聴く」ことの指導は必要ないと思う指導医はきっといます(そもそも患者の言葉に耳を傾けない指導医は少なくないのです 3))。いきさつがどうであれ、この評価基準ではコミュニケーションが、文字通り「台無し」だと思いました。
 それに、医療の場で「聴く」ことの役割のうち、情報収集やニーズの把握は、そのごく一部です。もっと「目的なく」雑談し、相手の話を楽しく聴くことがケアの本質であり(「対話の目的は対話」/白石正明さんのツイッターから)、それなくしてその人に合ったケアは見つけられないはずです 4)。そう考えると、コミュニケーションは「能力」という言葉とはなじまないという指摘は、その通りだと思います 5)No.285でも書いたことですが、「コミュニケーション能力」という言葉の裏には「能力主義」がありますし、その向かい側には「コミュ障」という言葉が見え隠れします。貴戸理恵さんは、「私はかつて、コミュニケーションのように『他者や場との関係によって変わってくるはずのもの』を、『能力』として個人の中に固定的に措定することを『関係性の個人化』と呼んで批判した。そこには意思疎通というコミュニケーションしている双方がとりくむべき問題を、『能力がない』とされる個人の問題に塗りこめて知らぬふりをする『普通の人』への疑問があった」と書いています(「『自己』が生まれる場」現代思想45-15 2017)。コミュニケーションの教育で、患者さんと会話する「楽しい」時間を持つことの意味が伝えられないのでは、医学教育の進歩は遅々たるものだという気がします。まあ、「伸びしろが大きい」と言うこともできますが。(2022.01)

1) 他の8つは、「医学・医療における倫理性」「医学知識と問題対応能力」「診療技能と患者ケア」「チーム医療の実践」「医療の質と安全管理」「社会における医療の実践」「科学的探究」「生涯にわたって共に学ぶ姿勢」です。そのどれについても、到達すべき内容として書かれているものは曖昧模糊としていますし、3など「ケア」については何も書かれていません。「指導医がまず勉強せよ」と促されているのかとも思いますが、それにしても現場ではどうしているのでしょう?

2) 例えば、かつて私はこのようにまとめました。(『臨床教育技法マニュアル』情意領域の教育 篠原出版1992)

(1)病者と接する姿勢
[礼儀作法について]
① 適切な挨拶をする
・患者より先に「おはようございます」(「おはよう」ではない)というように、きちんと挨拶する。
・患者に自己紹介(名前と身分)する。自分が担当することを説明し、了解を取る。
・「ありがとうございました」という言葉に応じて「どういたしまして」と言うような適切な応答をする。
・別れるときに適切な挨拶をする。
(上記を参考にして、以下の評価を行う。)
1.挨拶をしないことが多く、かつ言葉も適切でない
2.挨拶はおおむねしているが、言葉は適切でない
3.挨拶の言葉はきちんとしているが、いつもするとは限らない
4.正しい言葉での挨拶をいつもきちんとする

 好意的に考えれば、こうした内容について「具体的なことは、それぞれの病院で、その独自性を踏まえて明確化してね」ということなのかもしれませんが、私にはそこまで読み取れませんでした。

3) 患者さんの話を丁寧に聴いている研修医に「いつまでも話ばかり聞いているんじゃない」と「指導」した先輩医師が、武蔵野赤十字病院にいました。

4) 「遠慮をしたり、知ったかぶりをせずともよいこと。素朴に思われそうなことでも否定される恐れをもたずに、自分の経験に即して自由に語れること。話している途中で詰まっても、相手が次の言葉を待ってくれること。話を途中で遮られないこと。こうした機会は、多くの人にとって必要なものであるにもかかわらず、貴重なものになっている。・・・・お互いが相手を急かさずに、言葉が紡がれるのを忍耐強く待つ実践、そして、相手とともに物事をよく見て、よく考え、しっくりくる表現をともに見つけ出そうとする実践は、哲学対話や哲学カフェ以外にも、本来そこかしこにあってよいはずである。」古田徹也『いつもの言葉を哲学する』朝日新書2021
 ケアもインフォームド・コンセントも、このような付き合いなしには成り立ちえない。

5) 「『聞く技術』も『聞く力』も、『聞く』を個人の中に存在する技能として捉える思想なのだが、むしろ2人がいかなる関係にあるかこそが本質なのだから、『聞きやすい環境』とか『聞いてもらいやすい状況』について考える方がいい気がする。『聞く技術』が無効になるときこそ、『聞く』が問われるわけだし」 東畑開人ツイッター2021.12.17(東畑開人=『居るのはつらいよ』(医学書院)著者)


日下 隼人

コミュニケーションのススメ 日下 隼人 コラム

● 本コラムの内容は、著者 日下 隼人の個人的な意見であり、マイインフォームド・コンセントの法人としての考え、および活動に参加しておられる模擬患者さんたちのお考えとは関係ありません。

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