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No.333 医療経済を考える医者?

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 「こんな些細なことでいろいろな病院にかかるあなたのような人が医療経済を悪くする」と言われて受診を控えたために、重い病気の発見が遅れた人がいたという話を聞きました。「コンビニ受診」という言葉をよく耳にしますが、コンビニエンス・ストアに対して失礼な言葉だと思います。「開いてて良かった」と思ってもらえるだけのことを、今の医療はしているでしょうか。
 医師には医療経済についての見識(目配り・配慮)が必要であると言われます。けれども、自分の主治医から「私は医療資源や医療経済についていろいろ考えており、そのことも視野に入れて治療を提案します」と言われたら、不安にならないでしょうか。自分の残された時間(人生)を、その人に委ねたいと思うでしょうか。治療を手控えられたり、こちらの意に反してほどほどのところで止めてしまわれるかもしれません。医者は、目の前の患者さんのことを本気で考えたら、医療資源や医療経済のことは「忘れて」しまうものです。患者さんが「こんなに医療費を使ってもらって申しわけない」と言うとき、「患者さんはそんなこと気にしなくていいのですよ」と言ってくれない医者を信じられるでしょうか。「とりあえず、お金のことは二の次です」と言う医療者と患者との付き合いから、今日の医療の隘路を開く途が生まれるということもあるはずです。その意味では、在宅医療も両刃の刃です 1)
 鶴見俊輔は、このようなことを言っています。「『すべて人間として生まれた者は、差別の対象とされてはならない』。これは、憲法起草委員会に最年少の委員として加わった22歳のベアテ・シロタ 2) が書いた草案(24条)である。この草案は、日本国憲法の最終案には活かされていない。この欠落は、日本の戦後史に残ったさまざまの差別を温存させ、また加速させた」(「金鶴永『凍える口』-吃音が照らす日本」『思い出袋』岩波新書2010)
 この言葉は、現在の医療を問いかけてもいます。「こんなに医療費を使ってもらって申しわけない」と患者さんが言ったら、待ってましたとばかりに「やっと気が付きましたか」とか「じゃあ、ほどほどのところで」というニュアンスのやりとりが現実にあるところが怖い 3)。自分の最期まで付き合ってもくれない医者に「治療をやめて、そろそろ自分らしい生き方をしたらどうですか」と言われたくありません。「わかりました。じゃあ先生は最後まで付き合ってくれますか」などと患者は言いません。その気がなさそうな医者に、そんなことは言いません。その気がある医者ならこんな言い方をしません。こうして、人生の最後の病気の治療を担当した医者への失望を抱いたまま患者さんは旅立つしかなくなります 4)。多くの人は、初めから医者に期待していないのかもしれませんが。(2019.09)

1) 「過剰な治療はされたくない」「無駄な延命は要らない」「在宅のほうが良い」という患者の言葉の奥には、医療者そして医療そのものへの不信感(「医者というのは、とんでもないことをしかねないヤツだ」)が潜んでいるのに、医療者はそのことに気づかずに(気づかないふりをして?)その言葉に付け込んでいるのが現状ではないでしょうか。

2) ベアテ・シロタ・ゴードン(1923-2012)  ユダヤ系ウクライナ人の両親の子どもとしてウィーンで生まれる。少女時代の5-15歳の10年間日本に住み、その後アメリカに留学、戦後GHQに赴任。鶴見の記述内容については異説もありますが、いずれにしても彼女の書いた草案が人権を保障する24条、25条、27条の基礎になっています。それだけに、日本国憲法、とりわけその基本的人権について快く思わない人たちは、ウクライナ系の若い彼女がこのような草案を書いたことについて様々な個人攻撃を重ねています。しかし、その精神は1948年に国連で採択された世界人権宣言の精神と同じものであり、日本国憲法の人権条項の価値が下がることはあり得ません。「天賦人権の考えが誤りだ」という政治家さえいますが、人権や自由は国家から恩賜として与えられるものではありませんし、国家(公共)が優先するものでもありません。
 再掲になりますが、明らかに誤りの言説・おかしな言説・ヘイト的発言を声高に語る政治家は「自分達の話が、軽率で、あやふやであることはよく承知している。彼等はその話をもてあそんでいるのである。…話をもてあそぶことを楽しんでさえいるのである。なぜなら、滑稽な理屈を並べることによって、話し相手の真面目な調子の信用を失墜できるから。・・・彼等にとって、問題は、正しい議論で相手を承服させることではなく、相手の気勢を挫いたり、戸惑いさせたりすることだからである」(J.P.サルトル「ユダヤ人」岩波新書)。医療について同じような語り方をする医者も少なくありません。権力を持っている人間の体質は変わらないのです。

3) きっと誰もが感じていることですが、この国で手にすることの権利(特権)をもっとも享受しているのは、「戦後教育や日本国憲法のために人々が『自己中心』になり『権利ばかり主張する』ようになった」と言う人たち(政治家、企業経営者、学者など)です。そしてそのような人たちに限って、「道徳教育が必要だ」などと言いながら、しばしば自己の利益を著しく優先し、倫理的に問題のある行動をとっています。そのことと、自分が病気になれば高額な個室に入り、希望すれば濃厚な治療を受けることができ、自宅でも特別な医者や身内の医療者から手厚いケアを受けられる恵まれたポジションにある人に限って、そのようなメリットからは程遠い位置にいる人たちに向かって「過剰治療」「自宅での穏やかな死」と言いたてるのとは、同じ構造です。こうして「権利の主張」を制限され、「過剰治療を思いとどまるように」説得される人は、ますます基本的人権から疎外されていきます。そうした言説に異を唱える言葉すら持ち合わせていない人たちは、権利を主張することさえできず、いっそう権利が剥奪されていきます。アドボカシー(患者の代弁、権利擁護)が必要な場面は間違いなく存在しますが、「患者の立場に立った発言」もまた言葉を駆使できるというところで、言葉を持ち合わせない人たちを避けがたく傷つけるということを忘れないようにしたい、自戒を込めて。

4) 「延命治療の回避に努めるのが医療者の役割」などという言葉が公然と記事になる時代です(日経メディカル・インタビュー記事から)。こうした言葉はすぐに独り歩きしだし、そうなると患者は無限に「ホモ・サケル」(古代ローマでの「その人間を見つけたら殺してもよく、殺した人間は罰せられない。その死は不浄なものであり、犠牲として神に捧げることはできない」というカテゴリーの人間)になりえます。高齢者だけでなく障碍者も廃棄され、ついには社会の現状に批判的な人もその対象となりかねない。昨今公然と用いられるようになっている「反日」「非国民」などといった言葉が、今日の医療に異を唱える患者や「延命」を求める患者に対して向けられる日が来る可能性は決して小さくないと思います。『すべて人間として生まれた者は、差別の対象とされてはならない』という言葉は、「患者さんの人生の最後までつきあう」ことの根拠であり、ホモ・サケル狩りに加担しないための根拠です。

コミュニケーションのススメ 日下 隼人 コラム

● 本コラムの内容は、著者 日下 隼人の個人的な意見であり、マイインフォームド・コンセントの法人としての考え、および活動に参加しておられる模擬患者さんたちのお考えとは関係ありません。

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