No.360 上手な話で伝わらないもの
コラム目次へ 私が初めての「講演」をしたのは、今から44年前、当時の日本赤十字中央女子短期大学(現・日本赤十字看護大学)の1年生の演習に招いていただいた時でした。私の文章をもとに学生たちがディスカッションし、そこでの質問に私が答え、最後に少しまとめのお話しをしました(No.75でも触れました)。今思い返すと拙い講演だったと思います。自分でも「分からないこと」ばかりでしたし、学生たちにどのように話せばよいかも全然わかっていませんでした。学生たちの質問に必死の思いで答えていたことだけが、記憶に残っています。後にフローレンス・ナイチンゲール記章を受章された小林清子先生(当時、日本赤十字社幹部看護婦研修所のトップ)から授業後に優しい言葉をかけていただいたおかげで、なんとかホッとして帰ったことを覚えています。
きっかけとなった文章は、私が初めて医療系の本(雑誌「看護教育」)に連載したものでした 1)。この連載を通して何人かの方から好意的なお手紙をいただき、長いお付き合いも生まれました 2)。数日後、演習に参加していた若い教員からお手紙をいただきました。授業前には、医師が看護の本に書くことへの違和感があったけれど、授業での学生の質問を「正面から受け止めて丁寧に答えている姿を見る」ことでその違和感が薄れたと書かれていました。きっと、私は質問に対して十分には答えられてはいなかったでしょう。今の私ならずっと「うまく」答えられるでしょうが、そのほうが彼女の違和感は消えなかったかもしれません。あのとき講義を聞いてくれた学生たちも、もう60歳を過ぎています。
癌研附属看護学校(今は廃校になっています)では10年以上講義したのですが、初めて講義した学年にはとても(異様なほど)「受けました」(それまでも医学部や看護短大などで講義はしていたのですが、こんな経験はしたことがありませんでした)。彼女たちも、アラフィフのはずです。
ここ15年あまりは講演させていただく機会が多くなり、自分では今が一番まとまったお話ができると思っているのですが、コロナのおかげで講演依頼が無くなってしまいました。でも、よどみないまとまった話は、心が届くことを妨げる壁にもなりうるような気がしています。
拙い文章、しどろもどろの回答、滑らかではない(淀みのある)講演、はじめての講義だからこそ、伝わるものがあるのだと思います。看護学校での講義が2年目からはそれほど受けなくなってしまったのも、そのためだったかもしれません。医療者の患者さんへの説明もきっと同じです。上手な説明ができるようになることだけを、コミュニケーション教育の目標としてはいけないと思います。言いよどんだり、口ごもったり、いささかしどろもどろになる説明=「隙のある説明」が、患者さんの「息苦しさ」を和らげることがあるはずです(程度問題ですが)。その意味で、学生の医療面接演習でも、滑らかにできない人にこそ大きな可能性が秘められていると思います。ただ、それを否定的に評価したり矯めたりするだけでは、教育としては足らないのではないでしょうか。
学生実習や臨床1年目の、患者さんとの戸惑いに満ちた手探りのつきあいだからこそ生まれてくるケアがあります。指導者がそこで若い人たちと一緒に戸惑い、一緒に迷い、一緒に悩むことが、心を通わせるコミュニケーションを育み、倫理的姿勢を育みます。どんどん「正しい」方法や答えを「与える」こと、その「至らないところ」を叱責することは、教育でもなんでもありません。曖昧さ、答えの出ないことに耐える力 3) は、(ほんとうのところは、どうすべきかわかっていても)一緒に迷い一緒に耐えてくれる先輩・指導者がいることによってしか育たないのです。待つこと、それも気長く待つことは、教育に関わる者の最低限の矜持です。(2020.12)
1) 医者になってすぐのころ、「医療とは看護のことだ」という先輩医師の言葉にとても納得していた私は、キュア(と言われる医者の行う治療)はずっとケアの一部分でしかないと思っていましたので、看護の雑誌から原稿依頼をいただいた時は本当に嬉しかった。そういえば、武蔵野赤十字病院で、私は学生やスタッフたちの間で「日下婦長」とよく言われていたようです。
2) 先日上梓した『温かい医療をめざして』を読んでくださったある看護大の副学長の感想を、間接的に受け取りました。「実は、私は看護教員になりたて、20代からの日下先生の“隠れファン”です。当時、医学書院出版の雑誌『看護教育』に連載されていた日下先生の文章に初めてお目にかかった時には“目から鱗”がはがれるような印象を受けた記憶があります。今、再び日下先生の言葉に触れることができ初心に戻ることができました。」はるか昔の文章が、時空を超えてブーメランのように戻ってくるのです。そのことはもちろん嬉しいけれど、否定的な思いで文章を読んだ人・読んだとたん忘れてしまった人の言葉は戻ってこないことへの目配りも忘れないようにしたい。誰かのずっと先の未来に届くようにという願いをこめて、いつも言葉を贈りたい。
3) 曖昧さ、答えの出ないことに耐える力こそが倫理的姿勢なのだということは、これまでも何度か書いてきました。No.45、No.90、No.148、No.55、No.272、No.331など。
日下 隼人