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No.445 メメント・モリ

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 テレビで「メメントモリ」というゲームの広告が時々流れてくるのですが、そのたびに心がざわめきます。

 この言葉に初めて出会ったのは、木村敏さん(元・京都大学精神科教授)の文章でした。
 「一個の個体としてこの世に生れ落ちることによって、われわれはこの永遠の死が生の相をとって一定期間現生すべき場所を、われわれ自身においてひきうけたのである。われわれはこの委託を果たすべき使命を与えられている。私は私自身のこの使命を誠実に果たすだけではなく、同じこの使命が他人においても十分に果たされうるように配慮する義務を負うているのだと思う。これが自分自身のいのちをも他人のいのちをも大切にするということの意味でなくてはならない。存分に生きたという安堵感をもって自らの責務から解放され再び生れ落ちる前の永遠の死に帰還すること、これがわれわれの人生の意味ではないのだろうか。」(「メメント・モリ」思想の科学1973.1)

 疫病や戦争で死が溢れていた中世でのメメント・モリ(「死を思え」「死を忘れるな」)は、神による救済を願えという意味だったようです。
 M.ハイデガーは、いずれ必ず死ぬ自分の運命を痛切に自覚し、 実際に死が訪れる前に死の方へ先走っていき、そこから自分の人生をとらえ返す(「死への先駆」)ことによって、本来的な生き方を求め「良心の叫び声」に応えることが可能になると言いました。メメント・モリという言葉に出会った時、私はこの言葉をハイデガーの言うような意味に受け止めました。

 大学闘争の敗北をまだ自分の内に落ち着かせることができない時期、そして医者になる直前だったからこそ、木村さんの言葉が響きました。その後、病気の子どもたちの「死」と出会うことが重なり、ずっとこの言葉は響き続けることになりました。それで、この言葉がゲームの名前に使われていて良いのかなといつも戸惑ってしまいます。

 このゲームを開発した会社(バンク・オブ・イノベーション)の公式ポストには次のように書いてあります。

「魔女」と呼ばれる少女たちがいる。
少し特別な力が使えるだけの、ごく普通の少女たち。
しかし大陸に災いが広がると、 特別な彼女たちは恐れられ、忌み嫌われはじめる。
やがて聖槍教会による「魔女狩り」の開始が宣言された。
「災いは魔女のせいだ。魔女を殺せば災いは消える」
次々と処刑される魔女たち。
世界が狂気に支配される中、ある日突然呪いが世界中に現れた。
地獄の劫火に焼かれた国。骸晶に蝕まれた国。生命の樹に浄化された国。
それは「クリファの魔女」と呼ばれる少女たちの哀しい願い。
抗う術を持たない国は次々と滅び、そしてついに、
大地は空へと落ちていった──
その時、人々はまだ気付いていなかった。
人々に希望を与える、呪われた少女たちの光に。
滅びた世界を救うため、少女たちは、堕ちた大地を解放していく。
それが正義だと信じながら・・・・・・

 これを読むだけではメメント・モリとのつながりが私にはよく分かりませんでした。でも、現代は、医療と政治とが結託して「魔女狩り」を始めようとしている時代なのかもしれない。そう思って読み返してみると、身につまされました。

 「魔女」とは、高齢者、障害者、「末期」の患者、難病/不治の病の患者、外国人・・・・・1)。この「魔女」を「処刑」していく先には、この地球を亡ぼしてしまう「呪い(の獣)」が待ち構え、「滅び」が私たちを待っているのではないでしょうか。(No.431 No.432 No.433 No.434「尊厳死と社会保険料給付抑制」でも書きました。)

 「良い死(死に方)」「安楽死/尊厳死」「意味のない/価値のない生」「ACP」といった言葉は「呪詛」の言葉のようです。
 私には滅びつつある世界を「救う」などという大それたことはできないけれど、せめてその流れを少しでも押しとどめるように「抵抗」する医療者でありたい。(2025.08)

1) 政党が、マスコミが、SNSが、世代間などの対立を煽る時代です。その「煽り」に乗ってしまうと、高齢者には若い人が、若い人には高齢者が、「日本人」には「外国人」が、「外国人」には「日本人」が、「魔女」と見えてしまいそうです(もはや、そうなっているのかもしれない)。


日下 隼人

コミュニケーションのススメ 日下 隼人 コラム

● 本コラムの内容は、著者 日下 隼人の個人的な意見であり、マイインフォームド・コンセントの法人としての考え、および活動に参加しておられる模擬患者さんたちのお考えとは関係ありません。

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