メインビジュアル

No.365 マスク・コミュニケーション

コラム目次へ

 マスクをつける生活が当たり前になって、もう1年が過ぎてしまいました。初対面の人の顔を覚えることは難しくなり(私はもともと苦手です)、知り合いの顔さえ忘れてしまいそうです。
 コミュニケーションにとっては、とても深刻な事態です。マスクをしていても、コミュニケーションが取れないわけではありません。目を見ていれば満面の笑顔はわかります。眉を顰めるのもわかります。「目は口ほどにものを言い」、目がたくさんのことを語ります。恋人の間では、そちらの方がずっと大きな役割を果たしているでしょう。でも、目にすべてを託すわけにはいきません。あまり「目力」を込められたら、怖くなってしまいます。それに、医療現場での会話はもっと微妙な場合のほうがずっと多い。そんなとき、表情が言葉以上に多くのものを伝えます。あるいは、表情のバックアップがあってはじめて言葉は意味を持ちます(誤って受け取られてしまうこともあります)。

 人の気持ちは、顔全体を通してにじみ出てきます。「スマイリング・デプレッションでも、顔の下半分は偽れないので、眼が笑っていても、下半分に苦しみがあらわれているので見逃さないように」と神田橋條治さんが言っているそうです(中井久夫「看護のための精神医学」医学書院2004)。顔の表情について「怒り・悲しみ・驚きでは顔の上半分、嫌悪・幸福では下半分の影響が強い」「『本能としての表情』は顔の上半分、『文化としての表情』は顔の下半分に出る」とも言われます。顔全体がひとまとまりのものであってはじめてコミュニケーションの重要なツールとなります。メッセージを伝えるためには、自分の表情をフルに用いることが欠かせません。
 これまでも、マスクをつけた患者さん(私は小児科医ですから、ほとんどは保護者です)と会話をしているとなにか落ち着かない気がしていました。どんな気持ちで話しておられるのか、私の説明をどのように受け取っておられるのかがよく感じ取れないままお話しすることになり、どこか落ち着きません。人間と話していないような気さえしてきます。だとしたら、患者さんもマスクをして話す医療者に対して同じような気持ちを抱いているはずです。
 話す人の唇の動きを見ることで言葉を聞くことを補強するのは、聾者だけではありません。聴きなれない医学の言葉を耳にするときにも、唇の動きを参照しています。
 患者さんとの関係は恋愛関係ではないのですから、医療の場では目に頼ることができず、「言葉」の比重が大きくならざるを得ません。まだしばらくの間マスク・コミュニケーションの時期が続くでしょう。そんな時だからこそ、「言葉の表情」(「言葉の表情」については、No.75, No.186, No.209, No.223 などで触れました)や身体を介するコミュニケーション 1) をどのようしたら深めることができるかをあらためて考えることは火急の用だと思うのですが、伝える機会自体が少なくなり、どのように伝えればよいか話し合うことも難しくなっています。大学でのコミュニケーション教育では、そのようなことが伝えられているでしょうか。オンライン授業という時間が限られたカリキュラムの中では、コミュニケーション教育自体が割愛されそうです。マスクを着けながらの言葉への気遣いが、OSCEで評価できそうもありません。
 こんな時期が続いているうちに、患者さんの表情を見ながら会話を進める(話し方や話す内容を調整する)ことをしない医師がますます増えてしまうかもしれません。 (2021.03)

1) 竹内敏晴さんは、その著書『ことばが劈かれるとき』(思想の科学社1975)で、言語表現を支えるものとしての身体について書いています。
 「言うだけ言えばいい。相手がどう思おうと、言いっぱなし、という場合が多いのは、身体が他人に向かって劈いていないのだ。」「話しかけるとは、相手の体に話すこと、他のだれでもないまさにその人に話すのだ(一部改変)。」「話しかけがうまくいくと、スッとこえが相手のからだに沈んでゆき、ちょうど波が立つように相手のからだがスルスルと動き始める。・・・このとき、言葉の意味は解体し、別のものに変容すると言っていい」「相手にこえが届くとはどういうことか。こえで相手にふれるのだ。『こえで肩をたたくつもりで話せ!』・・・相手の肩に話しかける。うなじでも手でもいい。」身体というとボディランゲージと考えられがちですが、それよりもずっと深いレベルのことが書かれています。
 竹内さんが教育関係者の集まりに呼ばれた時のこと、みんなが独自の理論と実践について綿密な発言をしていたため特に据えることが無いと感じた竹内さんは、列席者の姿勢と発声について述べたそうです。
 「(ある主婦は)かん高いこえで論理的にきわめて明晰に話すが、胸から上だけに響いているこえだから、論理的説得力は持つが、感覚的あるいは感情的に他人を納得させる力は乏しい・・・。」
 「(ある教師の)発声は申し分ない。・・・ただし、自分から他人へ一方的に働きかけるこえであって、そのことばを発している自分の立場は、はたして今のままでいいのかな、と言葉を発しつつ反省するという作用が全くない明るさである」
 「(別の教師は)目、額にかなり緊張があり、・・・そのこえは・・・教室に強く通り威圧するように無理に圧しだされ・・・子どもをひっぱっていくことはできるだろうが、からだを溶かすことがない」
 竹内さんは「どんなに良く計画された授業でも、子どものからだがそれを受け入れ、いきいきと反応するようになっていなければ、氷に種子をまくようなものだ」とも書いています。
 こうしたことは、医療者の説明だけでなく、私たちの日々の言葉すべてにあてはまると思います。自分の言葉が通じないと嘆く前に、自分が竹内さんの指摘にあてはまっていないか考えるよう心がけたい。


日下 隼人

コミュニケーションのススメ 日下 隼人 コラム

● 本コラムの内容は、著者 日下 隼人の個人的な意見であり、マイインフォームド・コンセントの法人としての考え、および活動に参加しておられる模擬患者さんたちのお考えとは関係ありません。

● コラムNo.230 までは、東京SP研究会ウェブサイトにアクセスします。