No.350 消費社会の終焉?
コラム目次へ 2,3年後にこの感染症が落ち着いた後、もとの世界が戻ることはありえないでしょう。もちろん、2019年までの暮らしや政治・経済に回帰しようという企ては執拗に続けられるでしょうが(一時的には大きく揺り戻すかもしれれませんが)、人びとの人生観・価値観は変わらざるをえないでしょう。重い病気であることが分かった人の、身の回りの世界の色が薄くなり、大切だと思っていたものがどうでもよくなり(どうでも良いと思っていたものが大切になり)、時間の感覚が歪む(未来は靄に閉ざされ、過去が無限に遠ざかる)」ような経験と同質の経験をしてしまった私たちは、「自分の仕事は何の役に立っているのだろうか(ほんとうに人々に必要なものなのか)」「次のカタストロフに生き残れるものなのだろうか(それほど価値のあるものなのだろうか)」「自分の人生で本当に大切なものは何だったのか(何なのか)」「これは、そんなに大切なものなのか(虚しいものではないのか)」といった問いから免れなくなるでしょう。
ありとあらゆるもの(死までも)が商品化され、その商品が人の心に欲望を生みだし、ブランドや新製品に典型的にみられるように「差異」を消費することが「豊かさ」だと思い込まされてきた「消費社会」とは、「神話」≒先進国の「幻影」でしかないということがやっと明らかになったと言うべきでしょうか(ボードリヤール『消費社会の神話と構造』紀伊国屋書店1979)。「あの(消費社会の)日々が戻ってはこない」となれば、それはボードリヤールが指摘した「事態が逆転し(消費社会の)崩壊」が到来したことになるのかもしれません(『象徴交換と死』ちくま学芸文庫1992)。どこか「冷めた」「白けた」消費社会が現れるのでしょうか。だとすれば、「おいしい生活。」などと消費社会の波に乗ったキャッチ―な言葉を生みだすことを生業としてきたコピーライターが、現実を前にして次々と破綻した言葉しか発せなくなっている(「気の利いた」ことを言っている風で、たくさんの人を不快にしている)のは当然のことなのかもしれません。
この先の未来にいくばくかの希望が持てるとしたら、これまでこの国の片隅で「消費社会」とは一線を画した生き方を地道に実践してきた人たちの営為ではないかと思います。例えば、NHK「古カフェ系 ハルさんの休日」(2019.8.8初回放送)で紹介された館山のカフェTRAYCLEでは、店主の小高絵理子さんがアメリカ留学中に、多様な環境で過ごしてきた友人(アルバイトのチップでバングラディシュの何人もの家族を支える人・ユーゴスラヴィア独立戦争の砲火の下での暮らしてきた人)の話にショックを受け、豊かさや平和を平等に分配するための仕組みを模索したいと考え、店内で出すコーヒーも販売する商品もフェアトレードで手に入れたものを扱っています。彼女が10年勤めたIT企業を辞めてこのカフェを開いたということは、「AI、AI」と浮かれてきた最近の状況を問いかけてもいます(現在の厳しい状況の下でお店が続くと良いのですが)。そこには、「全体主義的な監視か、市民の権限強化か」「国家主義的な孤立か、世界の結束か」(朝日新聞2020.4.30論壇時評)という枠にとどまらない希望の萌芽がありそうな気がします。
日本の医療の在り方についても、これからさまざまなことが論じられるでしょう。適正な医師数はどれくらいか、適正なベッド数はどれくらいか(削減を続けるのか立ち止まるのか、これまでとは別様の再編を進めるのか)、医療システムの在り方、健保体制などのすべてについて改めて論じられるでしょうが、それがどちらの方向に向かうのかは終息の仕方によって左右されてしまうだろうとしか、現時点では言いようがありません。ただ、現在の異様なほどの「医療者への感謝・賛辞」はこの先の2025年問題に引き継がれ、医学・医療や医療者の在りようについての批判的言説は抑えられて(あるいは、控えられて)しまうでしょう。医療者への感謝の言葉や拍手、医療者を「英雄」のように持ち上げる言葉の氾濫は、「汚れ役」を他人に押し付けている自分の負い目を免罪していることでもあります。たとえそれが善意からのものであれ、これは裏返しの「特定の職業の見下し」でもあるのです。現に働いている医療者の少なくない人たちは、拍手や言葉に違和感を抱いているのではないでしょうか。「同情(賛美)するなら、金(モノ)をくれ」です(その動きも出て来ていますが)。
今回のことを踏まえて、医学的知や医学・医療の在り方を医療者自らが根底的に問い返すことができるかは、現に医療者に課せられている課題なのですが、そのことにどれだけの人が取り組めるでしょうか(自己肯定的に、現在の研究の延長線に邁進したり、自分たちの取り分を多くするだけの方向に行ってしまう可能性も少なくありません)。ゆっくり考えるのは一段落してからのことでしょうが、自ら命を絶ったアメリカの救命医に、そして現に第一線の過酷な状況の中で働いている人たちに、私たちは問われ続けることになるでしょう。
とりあえず目先のことで言えば、大学の休校が続き授業時間が短くなれば、当面まずは生物学的知識の伝授が優先され、次に研究室での教育をなんとか保障しようとし、コミュニケーションや患者ケアについての教育が大幅に削られることは十分にありうることです(「OSCEさえできれば良い」という傾向が今以上に加速しそうです)。この傾向が、当面にとどまらず、そのまま習性になってしまう可能性も少なくないと思います。先だって「医者には言えないことも,AIになら患者さんはいろいろ言ってくれるかもしれない」とある大学の学長の言葉を紹介する記事を目にしたとき、私は自分の目を疑いましたが、もう習性になっているのかもしれません。(2020.05)
日下 隼人