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No.379 セルフ・パターナリズム

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 ACP(アドバンス・ケア・プラニング)について、「将来の意思決定能力の低下に備えて、患者の意向を叶えるために話し合うプロセスの全体」と説明している文章に出会いました。わかりやすい(納得されやすい)説明ではあります。「(今の自分より)意思決定能力が低下してしまった」未来の自分は頼りなげですし、今のうちに自分の願いを言っておかなければとんでもないことをされてしまうかもしれません。そのようになったら周囲の人から尊重されないかもしれないという「恐れ」もあります。そうした思いが、「今のうちに意志を明らかにしておこう」という気持ちを後押しします。でも、この説明には「意思決定能力が低下した状態の自分」は、「今の自分」より劣った存在であるという考えが根底にあります。そこには、一般論として「意思決定能力が低下した人」は、そうでない人より「劣った存在」であるという考えがあるはずです。こんなふうに「健常者優位の思想」は私たちの心に沁みこんできています。
 「意思決定能力が低下した状態」を生きることになった人にとって、その状態が、その人にとってその時の人生なのではないでしょうか。どのような状況であれ、人はいつも自分が置かれた状況を、なんとか生きていくしかありません。「意思決定能力が低下」したのなら、その状況の下でできる範囲のことをして生きていくのが人生だと思い定める姿勢がありうると思います。未来の「判断力が低下/消失した自分」のありようについて、その時よりは元気な/「意思決定能力がある」現在の自分が判断し選んでおくというのは、「患者はどうせ自分のことがよく分かっていないのだから、医療者に任せる方がよいのだ」というパターナリズムと同じです。ACPはセルフ・パターナリズム(この言葉自体は和製英語ではありません)を免れないのです。
 「人生なんて、いつもなるようにしかならないのだから」「その時のことは、その時にしか分からないのだから」、その時には、その時の自分の(低下した)思いと周囲の人の思いとで決めていくことにしよう=「だから、その時(のなりゆき)に任せます」という選択は、十分理に適っていると思います。現在だって「意思決定能力が低下していない」という保障はありませんし、十分な判断力を持っているわけではありません。ACPについての「話し合い」だって、自分の身体についての知識や「その時」についての知識は乏しいまま(あるいは楽観性バイアスに支えられた「都合よい」思い込みに支えられて)、周囲の人の意向に左右されながら(顔色をうかがいながら)選択していくことも少なくないのですから、あまり大差ないのではないでしょうか 1)。どんなに詳しく丁寧に話されても、言葉は医療者のようにはわかりませんし、その時の状況は想像できません(それに、現実は想像/想定するようにはなりえません)。それなのに、いろいろな言葉に囲まれ、(「医療を控える方を選べ」という暗黙の圧力の下で・・・そうしたマスコミ報道がなんと多いことか)「話し合いをさせられる」ことは、「殿お覚悟を」と自害を勧められているような気さえしてしまいます、私が臆病なためだけなのかもしれませんが 2)。ここに「自己決定」「自己責任」の呪縛を読み取ることは、そう的外れではないと思います 3)

 周囲の人にはいろいろな思惑が渦巻きます。家族がいても、「家族は支え合って」などとはとても言えない人間関係を、医療者は何度も見聞きしています。家族が一人もいない人や家族との人間関係が断絶している人も少なくありません。そのような人にとって「家族は支え合って」という言葉は残酷なものでしかありません。医療者が「周囲の人」になるしかない場合も珍しくありません。どんな場合も、医療者の取る姿勢は同じであるべきです。
 「医学的妥当性の絶対的価値観を『死は敗北である』『生命の短縮を避けるべきである』と、極めて古典的な概念に設定」して、「いかなる医学的介入であっても“患者の死期を確実に早める行為(多くの治療制限が該当する)は医学的妥当性を欠く”とまずは判断する」「『医学的無益』という概念、言葉は、・・・現場での使用は避けることを強く推奨します。」(『“やさしい”臨床倫理フレームワーク』メディカ出版2018) (No.362でも引用しました。)
 「過剰医療」「非人間的医療」といった言葉で、医療を貶め、恐怖感をあおり、そのうえでの解決策が「治療中止する」という結論に至ることが、望ましい医療ではないと思います。こういった言葉は、医療者も患者も「攻撃」してもいるのです。そもそも「過剰医療」「非人間的医療」について、具体的に詳述されているわけではありません。どのような医療が「過剰」で「非人間的」かは、患者さん一人ひとりで違いますし、その時になってみないとわかりません 4)。当の患者さんとのかかわりの中で、医療は「非人間的」にも「人間的」にも見えるものです。命を早めに切り上げることを称揚することで、医療者を含めて周囲の人間が「楽になる」ことへの負い目を緩衝することは、医療倫理の仕事ではないと思います 5)
 「僕は治療すべきだと思います。でも、それは僕が医者だからです。医者は最後まで治療の可能性に拘ります。それが命を平等に扱う事だと考えます。ですが、家族はたった一人の、大切なその人の事を思って決めればいいと思います。正解も不正解もありません。周りの事なんか考えなくていい。お二人で決めてあげて下さい。じゃないと、きっと後悔が残ります。」(NHKドラマ「透明なゆりかご」第10話「7日間の命」)
 人生の選択にはいろいろな形が保障されるべきです。人生は、いつもいろいろな形を取らざるを得ませんし、それは終末期に限ったことではありません。「自宅での穏やかな死」「治療を受けずに生きる」というのも保障されなければならない選択肢です。でも、それは患者さんから提起されるべきことですし、そうでない選択肢を選んでも「最善の医療が提供される」ということが保障されて、はじめて選択たりうるのです。
 患者さんがどのような「想い」も表明でき、医療者と自由に話し合える関係が、医療の場にまだ十分に育っているとは言えないのが現状です。「この医者は、自分の命を永らえることを善しとして最後まで全力を尽くしてくれる」という信頼があって初めて、未来のことを考えることができ、話し合えるのです。「治療の中止=命を短くすることを勧める」医療者、「いつ治療を止めようと言い出すか分からない(もしかしたら勝手に止めてしまうかもしれない)」医療者を信頼することはできません。そこからは「信頼の医療」は生まれません。(2021.10)

1) 「うまくいった事例」「素晴らしい人」の話ばかりが語られていること自体、うさん臭い。みんな、ちょぼちょぼの、弱くて、だらしなくて、目立ちたがりで(あるいは、身を潜めたがりで)、愚かで、醜くて、視野が狭くて、いつもオロオロしてしまう、「それで(それが)良いのだ」というところから語られない話は、危うい。「穏やかに満たされた最期」を迎えたと見える人も、きっとどこかで「無理」はしているに違いない。そのことを忘れずに、どんなに患者さんが(そして自分が)オロオロしていても、その人のそばに居続けることが医療である。

2) 「政治家の最も肝要な職責の一つは、古い名称のままでは群衆に嫌悪される事物を、気うけのよい言葉・・・で呼ぶことである。言葉の力は、実に偉大であるから、用語を巧みに選択しさえすれば、最もいまわしいものでも受け入れさせることができるほどである。」(ル・ボン『群衆心理』NHK「100分de名著」から)ACPは、この「気うけの良い言葉」の一つではないだろうか。

3) 吉崎祥司『「自己責任論」をのりこえる連帯と「社会的責任」の哲学』学習の友社2014
広瀬義徳『自立へ追い立てられる社会』インパクト出版会2020

4) 「群衆の精神に、思想や信念を沁みこませる場合、…指導者たちは、主として、次の三つの手段にたよる。すなわち、断言と反復と感染である。」「およそ推理や論証をまぬかれた無条件的な断言こそ、群衆の精神にある思想を沁みこませる確実な手段となる」「断言された事柄は、反復によって、人々の頭の中に固定して、ついにはあたかも論証ずみの真理のように、承認されるのである」「ある断言が、十分に反復されて、その反復によって全体の意見が一致したときには、いわゆる意見の趨勢なるものが形づくられて、強力な感染作用が、そのあいだに働くのである」(ル・ボン 前掲書)
 「過剰医療」「非人間的医療」「無意味な延命治療」といった言葉が、その内実について詳細な検証を語られぬまま、くりかえし患者さんに投げかけられる。「病院に居るとこんなひどい目にあいますよ」「延命治療を回避するほうが/病院より自宅のほうが、こんなに良いことがありますよ」(「こっちの水は甘いぞ」)といった言葉で暗示にかけられていき、そうした「思想」に感染していく。しかも、それが「医療費を抑制したい」「介護を家族にさせたい」あるいは「自分で金を出せ」という国の思惑に結びついている。

5) 佐藤岳詩はアイリス・マードックの倫理について(『善の至高性』九州大学出版会1992)、「道徳とは『私たちはAをすべきか、Bをすべきか』といった選択の瞬間、あるいは問いを立てる瞬間に問題になるような何かではない。むしろ、その瞬間にいたるまでの、日々をどう生きるかということが道徳の問題である。・・・道徳的に不実の無い二拓の間で、真摯に悩むのなら、その時点で道徳的に優れている。・・・選択に至るまでの日々の生という連続的なプロセス・・・の中できちんと善を見つめようとすることが、道徳的に優れた在り方を生む」と解説している。『メタ倫理学入門』勁草書房2017


日下 隼人

コミュニケーションのススメ 日下 隼人 コラム

● 本コラムの内容は、著者 日下 隼人の個人的な意見であり、マイインフォームド・コンセントの法人としての考え、および活動に参加しておられる模擬患者さんたちのお考えとは関係ありません。

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