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No.355 「情がない」

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 ある有名な政治家のエピソードです。やはり政治家であった彼の父親は、息子のことを「政治家としてもっとも大事な情というものがない」と言って、政治家になることに反対したそうです。本人も「父から〈おまえは人として、相手への思いやりが足りない〉とよく怒られた」と明かしていたとのことです。
 私も母から「思いやりがない」としばしば言われましたから、この話を聞いた時、彼の政治家に少し親近感を覚えました。でも、このような言葉からは、思いやりに満ちた人は育たないでしょう。私の母は誰に対しても攻撃的で、思いやりがあるとは思えない人でしたから、「なんで、こんな人からそんなことを言われなければならないのだ」という不快な思いだけが今でも残っています。
 島崎敏樹さんは「だめだ、だめだと言われ続けた子どもは非行に走る」と書いています。「愛着障害をもつ子どもは自己肯定感が極端に低く、叱るとフリーズしてしまい、褒めことばはなかなか心に響かない特徴があるので・・・普通の子ども以上によく褒めて育てる必要がある」とありました(友田明美「子ども虐待と脳科学」小児科Vol.61 No.6)。どちらの言葉も、彼の政治家にはあてはまっていたのかもしれません。「思いやりが足りない」と言われる人が愛着障害を抱えているということではありませんが、「心に響くように褒める」こと、そして、「育てる」側が思いやりのある言動を自ら見せなければ、思いやりは育たないでしょう。
 件の政治家の父親の見立てはともかく、私の母の見立ては正しかったようです。自分が「思いやりが足りない」「情というものがない(優しくない)」ことは、私自身今でも痛感しています。No.61でも書きましたが、医者になった1年目の秋、初めて自分が受け持った患者が亡くなった時、こんなにつきあったのにどこかで「冷たく」事態を見ている自分に、言い換えれば「情に流されることさえできない」自分に私は落ち込みました。その後もたくさんの子どもたちの生死の境に関わりましたが、そのたびに自分の冷たさが身に沁みました。医者になって10年たった時にそうした思いをまとめたのが、初めての著書『子どもの病む世界で』(ゆみる出版1983年)です。この本はそこそこ増刷を重ねたので、ずいぶん後になっても、「この本を読んだので小児科医になった(or小児科医になることを断念した)」とか、「学生時代に読みました」などと医師から声をかけていただくことがありました。多摩地区で開業しておられる小児科医のブログに、この本のことについて「24年ぶりに読んだら、字が小さくてつらいけど『どうしてこんなに優しく出来るんだろう』と同じ思いを持ちました。自分なりにはあれだけ強い気持ちを持ったつもりで道を選んでも、やっぱり努力しても得られない優しさをもつ人がいるんだと思います」とあるのを読んだ時には、その正反対であることが本当に申しわけなくて「穴があったら入りたい」という気持ちになりました(この先生にはブログに返信し、また後日地域でのコミュニケーション研修会でお目にかかり、ご挨拶しました)。

 「情がない」「思いやりがない」という言葉は、しばしば医療者に投げかけられます。医療面接演習でのフィードバックでも「思いやりを感じた」「温かい言葉だった」などというコメントが返されます。医学教育では「どうすれば共感する能力を育てることができるか」が議論されています。医療者にとっても政治家にとっても情が欠かせないことは確かなのでしょう。でも、「情の政治」「情の医療」というところからだけ政治や医療が語られるとしたら、それは危うい。「情」が人を動かす力は強く、それだけに、情に乗ったばかりにとんでもないところにたどり着いてしまう危険もあり得ます。しかも、「情(善意)があったのだから」として免罪化されてしまいがちです。感情に訴える政治の過ちは、これまで何度も、そして今も目にし続けています(このところ、ますます悪化中です)。全体主義、歴史修正主義、「反知性主義」。医学的根拠のない民間治療にたどり着いて予後を悪くしたり、医療費膨張による社会崩壊という宣伝が独り歩きしたりするのも同じです。
 船が進むのには羅針盤と推進力が必要ですが、羅針盤は智に支えられるものであり、情に頼るものではありません 1) 2) 3)。「情というものがない」「思いやりが足りない」政治家でも医療者 4) でも(だからこそ)、誰もがその職業人として身につけなければならない智があるはずです(医学的知識ではなく「生活世界の智」です)。教育の場で伝えられなければならないのは、その智の方です 5) 。夏目漱石は「智に働けば角が立つ 情に掉させば流される 意地を通せば窮屈だ とかくに人の世は住みにくい」(「あらゆる芸術の士は人の世を長閑にし、人の心を豊かにするが故に尊い」と続きます)と書きましたが(草枕)、「角が立たないように智を働かせ、流されないように情に掉さす」ことを伝えることが教育です。窮屈でも意地を通すかどうかは、専ら個人の生き方の選択にかかっていますが。(2020.10)

1) 「人間の連帯は真理の哲学的な探求によっては不可能であり、他者が被る残酷さに対する私たちの感性を拡張することによって連帯は達成される」「連帯とは、伝統的な差異(種族、宗教、人種、習慣、その他の違い)を、苦痛や辱めという点での類似性と比較するならばさほど重要でないと次第に考えていく能力、私たちとはかなり違った人びとを『われわれ』の範囲の中に包含されるものと考えていく能力である」R.ローティ『偶然性・アイロニー・連帯 リベラル・ユートピアの可能性』岩波書店

2) 「善き人であるためには、他者への気遣い、すなわち他者の苦しみを緩和し、世界をよりよい場所にしようとする心構えと、何が最善かを見極められる理性的な能力の組み合わせが必要である」ポール・ブルーム『反共感論』白揚社

3) 人は、何かを見て心が動かされたとき、その感情の意味を理屈で考えて(心理学や認知科学の知識が役に立ちます)、新たな知識として自分なりに納得できたときはじめて、これからの活動についての意思が生まれます。心が柔らかくないと頭は動きませんし、頭=智が無いと心が柔らかくなりません。ケヴィン・ダットンは、感情から生まれる「熱い共感」と理屈で考える「冷たい共感」を区別しています(ただし、これはその著書『サイコパス』の中で、「サイコパスの人は冷たい共感は持てても熱い共感は持てない」と書かれているのですが)。ポール・ブルームは「情動的共感」と「認知的共感」と言い、前者の危険性を指摘しています。sympathyとempathyという言葉は使い分けられてきました。他人の不幸をかわいそうに思うのが sympathy、他人の感情を理解して分かち合うのが empathy です。「冷たい共感」「認知的共感」は「熱い共感」「情動的共感」に支えられ、同時に「熱い共感」「情動的共感」の「暴走」を抑止します。指導者(先達)にとって必要なのは、「冷たい共感」「認知的共感」を教えることと、「熱い共感」「情動的共感」を抱いている人を見守ることです。sympathyを強いることはできませんが、一緒にempathyを考えてみることはできます。

4) 医療の場で見られる「情というものがない」「思いやりが足りない」医師の言動は、現場がしばしば若い人たちがもともと持っている「情」や「思いやり」をすり減らしてしまった結果です。「何を教えるか」ではなく「どうすればすり減らさなくて済むか」かを教育者は考えなければなりません。

5) 「論理を感情に変換する作業を通さなければベートーベンは演奏できない」(仲道郁代=ピアニスト 「らららクラシック」)


日下 隼人

コミュニケーションのススメ 日下 隼人 コラム

● 本コラムの内容は、著者 日下 隼人の個人的な意見であり、マイインフォームド・コンセントの法人としての考え、および活動に参加しておられる模擬患者さんたちのお考えとは関係ありません。

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