No.413 「社会への貢献度が乏しい」?
コラム目次へ 「高齢患者さんの場合、「治療に多額の費用が掛かった割に、その後の社会への貢献度は乏しい」と思えます。言うなれば、税金を多く食いつぶしている気分になり、「医師という職業は本当に人の役に立っているのか?」と思う事があります」と医師の意見交換サイトに書いている人がいて、賛同するコメントも少なくありませんでした。
いろいろなことがあった人生の最後の段階を、「赤の他人」にこんなふうに言われなければならないでしょうか。こんなふうに言う権利を「赤の他人」は持っているでしょうか。
功利主義による社会的抑圧が内面化され、再生産されています。自分の老後も、この内面化された価値観で生きていくのでしょうか。
「小児科医は社会に役立つ人間をつくることだ」とある小児科の大家が言ったという話を聞いた時、私はその大家にもそのことを得々と語る人にも寒気を覚えました。「人間を作る」という傲慢な視点に立つ限り、この「社会」はすぐに「国家」に転化します。「役立たない」人間の範囲はいくらでも拡張されて排除の対象となりえますし、人間以外の自然にはいっそうためらうことなく拡張されます。言っている人間は「自分は社会に役立っている」と疑うことなく信じて、人間を選別していきます。
人は誰でも齢を重ねれば病気が増えてきますし、できないことも増えてきます。他人のお世話になることも増えてきます。そうしたことが、「長生きの勲章」とは考えてもらえないのです(もちろん若くても、そのような事態になる人もいます)。
交響曲の最終楽章がcodaに入ったところで「もういいよね」と打ち切られるようなものです(かつて、FM放送で演奏会の生中継を放送していたのですが、放送予定時間終了となり、曲が途中で打ち切られてしまいました)。codaはいつも大きな音で盛り上がっていって“ジャジャーン”と終わるわけではありません。ベートーベンの6番の交響曲は優しく終わりますし、マーラーの4番の交響曲は消え入るように終わります。静かな終わり方でも、その内には“ジャジャーン”という思いが渦巻いているでしょう。最終段階をないがしろにするということは、全曲を/その人の人生の全体をないがしろにすることです。
現代社会においては、自分たちこそが「正常」であると考える「正常性」と自分たちの方が優れているという「優位性」というものが、特権を持つ人びとの姿勢を形作り、弱い立場の人/マイノリティの人々を生きづらくしています。この価値観を医者が持ち続けている限り、初めの文章の「高齢患者」は「障害者」にでも「外国人」にでも「LGBTQ」にでも、容易に置き換えられてしまいます。
「医療プロフェッショナリズムの本質は、公衆が医師に抱く信頼を裏付ける価値観・行動・関係性である」と書いている人が居ました。「公衆」という上から目線の言葉が不快ですが、それはさておくとして、それならば、プロフェッショナリズムも医療倫理も「目の前の患者さんの生命を護る」というところに「居直る」べきではないでしょうか。そうでなければ、医師に信頼を抱いてもらえることなどありえません。
日下 隼人