No.374 マイクロアグレッション
コラム目次へ No.373の冒頭で、若い女性医師がマウスを使った実験の成果を語った後に、私が実験動物の命について語ったことについて「悪いことをしてしまったような気がした」と書きました。講演した時に「若い女性医師には、きついことを言ってしまったかな」と思ったのは事実ですが、「若い女性医師=か弱い」と感じることにもマイクロアグレッションが潜んでいるとあらためて思いました。もちろん「若い」人は年長者から、「女性」は男性から、有形無形の「圧力」を受けているのですから、年長者・男性はそのことを自覚し、配慮すべきです。しかし、「配慮する」ということだってどこか上から目線です。「年下の人」「女性」などに限らず、他の人をその属性からひとくくりに貶めるような関わりをしなければよいだけのことです。当然のことですが、「気を遣ってもらっていることに感謝して当然」「気を遣ってもらっていることに相応しい、身のほどを弁えた言動をとるべき」などと思うようなことは論外です(が、しばしば裏側に張り付いています)。
マイクロアグレッションは、少数者への攻撃の場合が多いのですが、いつもそうとは限りません。「在宅ワークが増えたのだから、男性の方も料理を勉強なさったら」という言葉も、マイクロアグレッションです。私は30年あまり我が家の食事を担当していますが、この言葉を聞いて少し心がざわつきました。「・・・するのが『らしい』生き方だ」「きっと多数の人はこうだろう」という前提からの言葉は、すべてマイクロアグレッションです。この言葉は、「男性はどうせ料理などしないだろう(母親や妻に任せっきりで)」「料理する男性って変わっているね」と、男性をひとまとめにマイクロアグレッションの対象にしています(同時に女性も対象になっています)。マイクロアグレッションとは、私たちになじみのある言葉で言えば「人を小ばかにしている」言葉や態度のことです。そして、料理について「頼みもしないのに」「どうせ知らないでしょ」といろいろ説明してくれる女性がいるとしたら、それはマン(ウーマン)スプレイニングです。男性/女性の問題にも、多数/少数の問題にも限らないのです。
ある大学の先生が模擬患者活動についての本を著したのですが(寺沢秀一(福井大学)『模擬患者とつくる医療面接』ナカニシヤ出版2020)、別のところでその本の執筆動機についてインタビューを受けていました。「2005年から模擬患者を使った医療面接の実技試験が始まるため、その数年前から試行的なことをしていかないといけないと思い、2001年には各地の大学病院に模擬患者を派遣している医療団体に来てもらいました。しかし、そこの模擬患者らはかなり厳しくて、医学生らにも攻撃的でした。私としては模擬患者には学生にもっと教育的に接してほしいと思っていましたが、とても評価的でトゲトゲしく、これを続けていくのは厳しいと考えていました」とのことでした。そして、「もう少し学生らにソフトに接してくれる人たちに模擬患者になってほしいと思っていたとき」賛同してくれる人がいて、自分たちが望む活動を作ることができたとのことです。言いたいことはわかるのですが 1)、この言葉はトーン・ポリシングです 2)。
それに、模擬患者の活動を自分のコントロール下に置きたいとつい思ってしまう医学教育者の宿痾も垣間見えます。「模擬患者はこうであってほしい」と思う医学教育者が、そのような姿を模擬患者に(しばしば、「さりげなく」)求めるのもマイクロアグレッションです。その姿勢は、患者に自分の望む「患者らしさ」を求めがちな医者の姿勢と繋がっています。それは、どこかで相手を下に見ていなければできないことです。そう言えば、「患者の話を聴かず」「一方的に話している」指導医(OSCEを指導しているにもかかわらず)の姿を実習で見聞きしたという話を、何度も学生から聞きました。こうしたことに、相手を下に見ていることが表れています。医者の「目の高さ」は一朝一夕には変わらないもののようです。患者さんは、日々こうしたマイクロアグレッションに、そして時にはマクロアグレッションに晒されているです。
マイクロアグレッションは、医者の世界でも溢れています。とりわけ女性医師はいまでも陰に陽に「攻撃」され続けます。女性医師は、「(結婚や育児に時間がとられて)研究/診療に専念できない」「男性以上に頑張らないとだめだ」といった言葉に取り囲まれます(ついこの間まで、入学差別も行われていました)。私はずいぶん多くの病院で講演に招いていただきましたが、大きな病院で女性の病院長にはお目にかかりませんでした。女性の院長が少ないのは、女性医師が「普通に」活躍できる条件を男性中心の社会が「奪い取って」きたからです。それなのに「女性はねえ・・・」「意欲が足りない」「もっと業績を上げなければ」「経営に興味がない」などと女性医師の責任であるかのように語られがちです。「女性医師が、そのような途を選びたがらない」ということはあると思いますが、それは「適応的選好(実行可能な選択肢に応じて選好が変化すること、とりわけ、実行可能な選択肢が貧弱である場合に、そこからでも十分な満足を得られるように選好を切り詰めてしまうこと)」のゆえのことが多いのです。「男社会」にありがちな出世欲/名誉欲や「経営への興味」にあまりとらわれない人、ケアへのまなざしが豊かな人 3) が管理者になる方が、日本の医療はきっとずっと良くなるはずです 4) 5)。(2021.07)
1) 私自身、そのような団体があることは仄聞していますし、もちろん好ましいことではないと思っています。そのことはNo.80でも書きました(この時私に話してくれた学生は、西のほうの大学でした)。それでも、このインタビューの言葉は、模擬患者全般に対するマイクロアグレッションになっています。
2) マイクロアグレッションには、「そんなつもりはなかった」ということのほうがずっと多く、時には「善意」からの言葉に込められていることもあります(「彼は毎日料理までしている良い夫だ」「(日本人じゃないのに)日本語が上手ですね」のように)。マイクロアグレッションをしている方は、そのことに気づいていないことが少なくありません。そして、そのことを指摘されると、「指摘の仕方が良くない(「あんな言い方をしなくても」「あんなきつい言い方では、聞いてもらえないよ)」と反論しがちです。なかなか気づけないから、強めに言われてしまうということがわからないのです。
3) C.ギリガン『もうひとつの声――男女の道徳観のちがいと女性のアイデンティティ』については、No.370にも書きました。でも、男性だってもともとケアへのまなざしを持っているはずです。問われるべきは、何がそれをすり減らしてしまうのかということです。男性が出世欲/名誉欲や「経営への興味」から解放されて、そのまなざしをケアのほうに向けやすくなるような社会を作ることこそ、目指されるべきです。その時には、性別による違いが薄くなるかもしれません。
4) アメリカ最高裁元判事R.B.ギンズバーグ(1933-2020)の言葉
・「『最高裁判所に何人の女性判事がいれば十分か』と聞かれることがあります。私が『9人』と答えると、みんながショックを受けます。でも9人の判事が全員男性だったときは、誰もそれに疑問を抱かなかったのです」
・「(MeToo運動が起こるのは)時間の問題だったと思います。あまりにも長いあいだ女性は沈黙しつづけ、自分にできることは何もないのだと考えてきました。しかしいまや法律は女性と男性を問わず、ハラスメントを受ける人々の側にあります。それは素晴らしいことです」
・「女性を優遇してくれとはいいません。男性の皆さん、私たちを踏みつけるその足をどけて」( ドキュメンタリー映画『RBG 最強の85才』でギンズバーグが朗読した一言。もとはアメリカの奴隷制度廃止運動家だったサラ・ムーア・グリムケの言葉)(医者と患者の関係にもあてはまりそうですね。筆者註)
5) 男性よりも出世欲/名誉欲・権力志向に囚われない存在であることを女性に期待して「権力的な(=人の上に立ちたがる)女性は嫌だ」と思うことはあるのですが、「人の上に立ちたがる」権力志向の人というのは性別に関係なく、あまりおつきあいしたくない存在だということに過ぎないと思います。そこで「女性なのに」と思うことにはケアの倫理により近い存在なのだからという期待があるのですが、それとても「らしさ」を求めるアグレッションかもしれません。
※ 今回はカタカナをいっぱい使ってしまいました。それで自戒を込めて。
「自分でもよく分かっていない言葉を振り回して、自分や他人を煙に巻いてはならない。出来合いの言葉、中身のない常套句で迷いを手っ取り早くやりすごして、思考を停止してはならない。」(古田徹也『言葉の魂の哲学』講談社選書メチエ2018 2019年サントリー学芸賞受賞)
日下 隼人