No.313 ACPを語ることについて(1)
コラム目次へ 武蔵野赤十字病院で「医療倫理」についての講演会がありましたが、予想通り(?)半分以上はACP(アドバンス・ケア・プラニング)についてのお話でした。
少なくない病院で、「人生の最終段階における医療処置に関する確認書」(新潟市民病院)「医療処置に関する事前指示書」(亀田総合病院)といったものが用意されてきているようです。読んでみると漢字の多い難しい言葉が並んでいて、私などはそれだけで圧倒されますし、しばしば出てくる「死亡時の処置」という言葉には切腹を迫られるような感じがしてしまいます。「生き方連絡ノート」は通販で購入できます。「人生会議」という呼称を広める動きがあります(聖隷浜松病院、厚生労働省)が、なんとか「死に方の希望」という言葉を避けよう(隠そう)という下心、医療費を減らしたいという下心が見えてしまうのは私の視力に問題があるのでしょうか。そんなふうに見ていると、アドバンスというポジティブな意味合いの言葉がさりげなく用いられていることにも下心を感じてしまいます。
「生き方」や「人生会議」と言うのならば、亡くなる時の処置の欄など不要だと言うこともできるのではないでしょうか。納得できる生き方をしてきていれば、最期の時の処置がどのようなものであれ「良い人生」です。「進学や就職、結婚などについて家族と相談するように、早い段階から(死や最期の時を)自然に話し合っていく」(医学界新聞から)と言われても、そんなふうに死をそれ以外のものと同列に語ることは「不自然」ではないかと戸惑います。
このところ「良い死に方」についての言葉ばかりが氾濫しています。語る人は、どこか「誇らしげ」に語っています。時代を切り開いているという自負、「患者のために」医療を変えているという自負のためかもしれません。「どのようにしても、生かし続けてほしい」という、医療者からみれば「無理無体な」患者家族の希望にたいする苛立ちもあるのかもしれません。
「日本の終末期医療の考えが大きく変わろうとしている中で、無理な延命を希望せずに可能な限り自宅で治療を受けて最期を迎えたいと希望している人が急増している。しかし、その準備を進めている人はほとんどいないという課題もある。国はACPという自分の意思をあらかじめ書面に残す取り組みを促しているが、実際に実行している人はわずか3%にとどまっている。こうした実態や課題、動き出した医療現場を通して、希望通りの終末期を迎えるために何をするべきか問う番組」が放送されたりします(この番組制作に関わった医師の視聴を勧めるマルチポスト・メールから)。
「無理な延命」「可能な限り自宅」「希望通りの終末期」「急増」というような言葉が「もっともらしい」割には根拠や具体性に乏しいということはNo.300でも書きましたが、患者さんの「希望する医療」も医者の都合に合わせて利用されがちです。「妊娠を希望する人に応えたい」という言葉を隠れ蓑にして、生殖をめぐる倫理問題や高額な費用の問題を「見ないふりをして」人工授精が進められてきたのと構造は同じです。
日本の終末期医療にさまざまな「悲惨な」実態があるとしても、それを「止めてしまう」という選択肢しかないのでしょうか。「敬語を使うと壁ができる」から敬語を使わないというのと同じです(No.306)。「終末期医療に見られる悲惨さ」も「敬語によってできる壁」も、「それをしない」という選択肢とは別の解決法を考えないというのは、思考停止だと思います。
「無理な延命」は医療者の評価なのでしょうか、患者・家族の評価なのでしょうか。「延命」が無理・無駄なものと思うか思わないかは、関わる人の立ち位置によるのではないでしょうか。「これは無理な延命です」と言われて、「そうではない」と反論できる人は稀です。論理的に反論できなければ「ともかく何でもやってほしい」と言い張る「聞き分けのない」家族になるしかなくなります。
「大きく変わろう」としているのか、「大きく変えよう」としているのか、ここは中動態ではないと思うのですが、さりげなく言葉が誤魔化されています。「お金が足らない」なら、そのことを正直に言えばよいのです。ACPで、みんなが「最後まで、できるだけの医療をしてほしい」と言う事態になれば、このような活動をしている人は困るでしょう。だからこそ、そうならないようにさまざまな宣伝活動が行われます。在宅医療を行う医師や看護師の訪問する「平和な」姿がテレビで放映されますが、医師や看護師がいない時の患者や家族の不安は放送されません(患者さんの言葉は「安心しています」というものだけが放送されます)。辛かった在宅医療についての報道は避けられるでしょう(対象としてそもそも選ばれない)。1982年に出版された徳永進さんの「死の中の笑み」(ゆみる出版)は名著ですし、ACPによって「幸福に逝った」事例の報告もたくさんあります。そのような事例の存在は確かにあると思いますが、それとても医者の価値観が投影された、医者の自己肯定的な「物語」である側面は免れず、一定のイデオロギー的役割を果たしていると思います。
在宅で最期を迎える準備を進める人が少ないことを、個人の意思表示の問題であるかのように言うとすれば、それは「帰属の錯誤」です(意図的な?)。
これまで社会的に不本意な生き方を余儀なくされてきた人にとっては、最期の時だけ「あなたの思いを大切に」などと言われることは大いなる皮肉以外のなにものでもありません。それは希望の尊重であるよりは更なる収奪のようです。P.ブルデューの言う「経済資本」や「社会資本」を有する人たちが希望する「死に方」は、そうではない人のそれとはしばしば大きく異なります(どのような選択肢を選ぶこともできる経済的・認知的・社会的条件を持っているので)。在宅での終末期医療が曲がりなりにも「幸福な形で」できるのは、本人が医師であり、その家族に医師と介護のできる人間とが居るような場合に限られるのではないでしょうか。だから日野原重明氏のことが好ましい例として挙げられるのです。私の父も祖父もそのような環境であったために、祖父は自宅で亡くなりましたし(点滴も拒否しました)、父は病院で亡くなりましたが治療は積極的には行いませんでした(「あと2日くらいかな」と言った「予測」は少しだけ長い方に外れました)。そして、在宅医療にはNo.304で書いたように「家族労働の収奪」の問題もあります。国家が用意すべきなのは「書面」ではなく、そのような選択も可能にする社会的条件の充実のはずです。
「良い死に方」が声高に語られることが、まるで「お国のために進んでこの身を捧げましょう」という戦前の雰囲気と通底しているのではないかということは、繰り返し書いてきました(No.15, No157, No.264)。「最後までできるだけの治療をしてほしい」と望む人が「国賊」「非国民」と言われる日がまもなくきそうです(すでにそう言っている人も少なくない)。「平穏死」について書かれている本の新聞広告に「『安楽死』を選ばずとも、自宅でおだやかな最期は可能。それが日本の文化です」とありました。「日本の文化」から「あるべき死に方」を説きだすことと「非国民」との距離はさほど遠くないのです。(No.301にも書きました。)
「『自然死』とかすぐ言う人たちが怪しいと思っている。・・・その人たちもふだんはぜんぜん自然になんか暮らしていない。・・・人工呼吸器って、扇風機、というか換気扇のようなものだ。クーラーよりは原始的なものだ。なのに一方は使い、他方は使わないと言う。辻褄が合っていない。そうすると、早めに死んでほしいと思うときに、『自然に』とか私たちは言ってしまうのではないかと思えてくる。(立岩真也「人間の条件 そんなものはない」新曜社2018)
立岩真也さんは「出来なくなること」と「生きる価値」とは関係がない、という意味のことも言っています。「人間の尊厳」の有無が、自己意識の有無によると言ってしまって良いのでしょうか。それでは、津久井やまゆり園の犯人・高齢者施設で殺人をした犯人を非難することはできないでしょう。カール・ビンディングという法学者とアルフレート・ホッヘという精神医学者が著した「生きるに値しない命を終わらせる行為の解禁—その基準と形式をめぐって」という本は、ナチスの教則本となりました。「それとは違う」といくらでも言えると思いますが、そこに通底するものを見つけることはもっと簡単で、それに気をつけることの方がずっと重要です。(2019.01)