No.446 居場所
コラム目次へ 教育学者の山本宏樹さんが「心理的安全性」について書いています。
「対人関係においてリスクを伴う行動、例えば、素朴な疑問を呈する、異なる意見を表明する、自らの過ちを率直に認める、他者に助けを求めるといった行動をとっても、罰せられたり屈辱的な思いをさせられたりすることがないと確信できる状態のことを、組織行動学の権威/A.C.エドモンドソンは「心理的安全性」と言っているそうです。心理的安全性が確保された環境は、活発な学習、創造的なイノベーション、率直なコミュニケーションを促進し、構成員一人一人のウェルビイングを高めます。」(「傍観者依存のいじめ対策を超えて」現代思想 特集「バイスタンダーとは誰か」53.9 2025)
それは患者さんと医療者との関係にもそのまま当てはまると思います。
「どんなことを言ってもよい」「どんな思い・希望も受け容れてもらえる」。自分の言動について「屈辱的な思いをさせられることも、人格否定をされることもない」という保障・信頼。
医療者が信頼できる。医療者に心を許せる。医療者との付き合いが「楽しい」。親しい人がそばにいてくれる。
それは患者さんにとって、自分の「居場所」があるということです。
そのことは、病院医療にも在宅医療にもあてはまります。「自宅が良いでしょ」と言われてもそこが「安心できる」居場所でなければ「良い」わけがありませんし、早々に退院を迫られる病院医療では居場所そのものがますます危うくなってきています。
「私たち大人に求められる、複雑な背景をもつ子どもたちの居場所づくりに必要なポイントは、本人が気に入っている居場所は奪わず、ありのままのその子を受容し、しかし安全に過ごせるように配慮し、新たな居場所や生き方の選択肢を与えるというような、いわば、大人自身の技術力と忍耐力が必要になるものだと思います。」(風間暁「居場所が無かった子どもの居場所 ~当事者目線の居場所論~」チャイルドヘルス 2025.5特集「子どもの居場所 安全と笑顔を守るために」)
心理的安定感を得られる居場所がなければ、死を進んで受け容れることになるかもしれません。そこにACPがつけ込んでいるということはないでしょうか。
「早く死ね」といわんばかりの政治家の発言、「安楽死」を進めようとする発言、そもそも病気であることが「罪」であるかのような発言、「そんな病気はない」というような発言が先の選挙ではたくさん聞かれました 1) 2)。それらは、病に耐えている人の心理的安定感を揺るがしています。
政治家のこうした言葉は、暗黙の裡にせよ「お前の居場所は、この国にはないんだよ」と言っています。そんな言葉は早めの「死」を選択せよというプレッシャーでもあります。
居場所とは、現実の場所とは限りません。大切に思いあう人の存在が信じられれば(離れていても)、そこが居場所です。政治が「弱い立場の人」を支えるメッセージを出せば、それは居場所の安定に役立つでしょう。
医療者は、そのような「居場所」を患者さんに提供することからしか医療/ケアは始まらないということに気づいているでしょうか。気づいていても、大きな急性期病院ではそのことができなくなりつつあります。
「ケアというのはもしかして、「やり方」ではなく「場所」を問うことではないだろうか。」(白石正明『ケアと編集』岩波新書2025)
1) 議論するなら、アジテーションではなくもっと丁寧な落ち着いた対話・共話が必要ですし、それは「突き落とすことではありません。
フランソワ・トルフィン(ベルギーの看護師)は安楽死について、「まもなく海に入らなければならないことは知ってはいるが自ら飛び込む勇気のない、崖の上に立つ人の背中を押すこと」であり、緩和ケアは「突き落とすのではなく、手を引いて海岸沿いの道を岸まで下りていく。時間をかけてその人に合った道を探し、ずっと一緒に降りていくこと。そしてそのために必要な時間を、彼らの傍らにいる最愛の人に与えること」と言っているとのことです(児玉真美「医療職と家族 安楽死の議論から漏れ落ちる「当事者」たち」現代思想 53-9 2025 特集「バイスタンダーとは誰か」)。
その方向は法律などで決められるべきではありませんし、決められることではありません。政治の仕事は、当事者が「思いのたけ」を自由に話し合える居場所(時間と空間)を保障することです。
2) このようなことを言う政党に投票した人たちの中には「この国に自分の居場所がない」と感じている人たちが少なくなかったのかもしれません。そうだとしたら、そのところから話し合いを始めることが必要なのでしょう。
日下 隼人