No.340 「在宅、良いでしょ」という「いじめ」
コラム目次へ 「慣れ親しんだ家で、親しい人に囲まれて最期を迎える」ことができれば、それは悪いことではないと思います。でも、これこそが理想であるとされ、「在宅、良いでしょ」という言葉ばかりが迫ってくるとしたら、それは危ういと思います。このような最期を迎えることができる環境にある人が、決してこの国の「多数派」ではありません。
どの家族も平和で仲良い関係にあるというわけではありません。私と母との関係は年を経るにつれて悪くなる一方で、彼女の最期の頃はほとんど没交渉でした。レビー小体型認知症の母の介護はその妹(叔母)に任せきりにしましたので、当然にも叔母と私の関係も最悪になりました。認知症の介護にありがちなことですが、叔母と母の関係も剣呑なものになりました。認知症でなくとも、「温かくない」家族関係をみることは決して珍しいことではありません。忌避したい「家族と一緒に」最後の時を過ごすのは、お互いに地獄です(最期の時になって「和解」らしき言葉を交わすことはありますが、むしろ相手を「赦せるだけの寛容さ」ポジションのマウンティングのような気がします)。
家族のいない人もいます。「親しい人」は家族とは限りませんが、そのような「友人」のいない人も少なくありません。最期の時期に付き合ってくれるほど親しい「友人」がいたとしても、他人が「親身」に関わるにはおのずと限界があります。
「家族に囲まれて」ということは、家族(親しい人)の無償な過重介護労働を前提としています。自民党の憲法改正草案に「家族は互いに助け合わなければならない」という言葉が加えられていることは、無償労働を迫る口実になります。家族であっても介護「給与」が支払われるべきだと思いますが、そのようなことを求める人は「人でなし」ということになるのでしょう(No.304でも書きました)。しかも、しばしば介護は女性が行うこととして期待されます(犠牲が強いられます)。介護者は肉体的にだけでなく、患者さん自身や周囲の人たちからの「心ない」言葉で精神的にも傷ついていきます 1)。「在宅、良いでしょ」には男性中心の論理が見え隠れします。
男女を問わず、なんの不利もなく介護休業をとれる人はわずかですし、休業取得自体が難しい環境に生きている人たちがいっぱいいます。介護のために退職し、再就職もままならず、生活が困窮してしまう人たちは今後増え続けていくでしょう。いま医療費を節約するために在宅医療を進めることが、後々この国の経済・人々の暮らしを大きく疲弊させてしまう可能性は小さくないと思います。
「悲惨な状況」が語られ、あるいは「つらくて見ていられない現実(「つらい」のは、患者本人なのか周りで見ている人なのか)」を目の当たりにしたときに、家族が医療者に「その悲惨さを回避する医療を求める」ことは困難です。経済状態が厳しく、介護する人の疲弊を目の当たりにする患者さんは治療を受け続けることを断念します、「迷惑をかけたくないと」。こうして「そんなに悲惨ならば『人間らしい』最期を」と自らを納得させて「死を早めること」が選ばれます。「限りない延命治療」(No.300, 301)を断り「(平穏かどうは別として)死を早める選択」が(政策の期待通りに)「自己決定」され、「待ってました」とばかり「患者の自己決定権の尊重」が行われます。
在宅医療・訪問医療を受けられる家に住んでいる人ばかりではありません(No.302でも書きました)。日本の住宅事情について言えば、特に都会では狭小な家のために介護がままならない人も少なくありません。家の条件が満たされても、輸液や器械が装着されている患者さんをシロウトである家族が見続けることは不安です。医療者がすぐに来てくれるとは限りませんし、「なんだか心配です」と電話しつづけるわけにもいきません。私の知り合いは、在宅を始めたのですが、状態が悪化していく患者を見ていることにはすぐに耐えられなくなりました。呼吸困難の状態にある父親を見ていた、当時小学生だった娘さんは9年たった現在までトラウマを残しています(「家庭で死を見なくなった」ことを悪いことだという人がいますが、このようなことがわかっているのでしょうか)。
私の祖父は、それなりの広い家に住み、医師になった息子たちが治療し、住み込みの看護婦が介護する中で、自宅で最期を迎えました。付いていた点滴を「もう、要らん」と言って自分で抜き、結果的には最期が少し早まりました。40年も前のことです。そのような条件が満たされた時には「在宅、良いでしょ」かもしれません。陋屋で孤独に亡くなっても「家に帰れて良かった」(「住めば都」)と言う人は居るでしょうが、それを「在宅、良いでしょ」の根拠にすべきではありません。病院は楽しいところではありませんし、プライドもプライバシーも傷つけられるところですから「どんな家」に帰ってもなにがしか気持ちは落ち着くでしょうが、そのような病院の現状を変えることのほうが優先課題です。
「好ましいモデル(美談)」に当てはまらないものは、議論から排除され、視界から隠されていきます。「在宅、良いでしょ」という言葉は、「慣れ親しんだ、それなりの家」や「そばに親しい人(家族)」という条件が満たされない人を排除しています。そのような人の最期を「良くない死に方だ」「不幸だ」と貶めています。それは、さまざまな理由のため「良いでしょ」の枠に入れない人々への「いじめ」です。巷間、学校での「いじめ」は「傷害」「暴行」「恐喝」と表されるべきだと言われています。それと同じ意味での「いじめ」です。どのような死に方も選択肢としてありえますが、それに優劣をつけるからおかしくなるのです。医療者の仕事はその優劣付けに抵抗することのはずなのに、「尊厳死」という言葉によって「死」に優劣をつけることで、医療者の精神は退廃していきます(No.15, 16, 17、No.254、No.300, 301, 302でも書きました)。「尊厳」という言葉の安売りは、「人の命の尊厳」を軽くするばかりです。 (2020.01)
1) 天田城介は認知症の介護をめぐって、介護される者と介護者との葛藤、介護される者の自尊心やプライドの傷つき、介護者のジェンダー規範を内面化した自己犠牲精神・負い目や自責の念、高齢者同士の介護の抱える問題などについて詳細に記述している(『老い衰えゆくことの発見』角川選書2011)。もちろん認知症に限られることではないし、終末期医療にはさらに多くの問題が存在する。
日下 隼人