No.417 自己決定(3)「命の断念」は称賛されるけれど
コラム目次へ 「命の断念」には肯定的な言葉がかけられます。「温かな最期」「人間らしい最期」そして「死ぬ権利」。権利という言葉は「よりよく生きる」ための言葉です。人は誰もが「死ぬ」ことを宿命づけられているのですから、もともと「死ぬ権利」などと殊更に言われることではありません。
他方、「生き抜こう」とすることには否定的な言葉がかけられています。「無駄な治療」「無益な治療」「医療費の無駄遣い」「つらいばかりの治療」「生きながらえさせる悲惨な医療」「人間らしくない」「尊厳がない」「生きている価値がない」・・・・これらの言葉は元気な障害者や高齢者にも掛けられがちです。
この構図はおかしくはないでしょうか。「洗脳」しようとしているとしか思えない。その背後に経済の問題があることが「明らか」なのに、そのことには控えめにしか触れられません(最近、堂々と言う人たちも増えてきています)。
日々の診療の場面で、医師たちは患者さんに「温かい医療」を提供しようとしてくれているでしょうか。「尊厳を尊重し」「人間らしく」扱ってくれているでしょうか。「患者の権利」を守ろうとしてくれているでしょうか。そこでは「手を抜いて」おいて、「死ぬ権利」ばかり言われるのはおかしいのです(きっと「死なせる権利」が考えられているのでしょう)。
「寝たきりの患者」について「悲惨だ」と言う医者は少なくありませんが、そう言う人が、そう言うこと自体が「悲惨な」状況に加担しています。「悲惨」に見える状況を変えていくことは医療/ケアの課題です。
ACPが「うまく行く」ためには、知識(医学についての読解力だけではなく、社会学的な知識も必要です)、経済力、人脈(医療界の知り合い・「献身的な」家族)がそろうことが必要です。P.ブルデューの言う、経済資本、文化資本、社会資本です。
上手くいっているように見える場合でも、もしかしたら見かけだけかもしれません。知識はごまかされることもあります。無知に付け込まれる可能性もあります。経済も人脈も、周囲の人には多少なりとも無理がかかっています。
医者や政治家、官僚、企業の偉い人たち(ステレオタイプな言い方ですが)は、そうしたものに恵まれています。長い間の治療を受けることになっても、きっと「医療費の無駄遣い」とは言われない人たちです。恵まれた人たち(その人たちは手厚い医療/ケアを受けられる)が考える恵まれた事例がまるで一般なことであるかのように語られます。
それをデフォルトとしてしまうと、その人たちが提案/推進するACPで「割を食う(不本意な最期を過ごし、悔しい思いをする)」のは、ブルデューの言う“資本”の少ない(弱い立場の)人です。
私の祖母は90歳を過ぎて入院しましたが、最後の日々でも私と父が見舞いに行くと、父に「私、まだ死なへんなあ」と同意を求めていました(「早く死にたい」という意味ではありません)。
東北の農村で、90歳を越した女性が「まだ死にたくない」と言ってみんなに笑われていたという話を、子供の私に母がしていました。
「まだ死にたくない」という思いを尊重できない医療は、「もう死んでも良い」という人の思いを尊重することもできないと思います。
以前、私たち夫婦が知り合いのご夫婦と出かけた時のことです。自動車のラジオで、人身事故で鉄道が止まっているとのニュースが流れた時、知り合いの奥様が「まあ、迷惑な」と言いました。その言葉は、その時の雰囲気を含めて私たち夫婦の心にずっと残り続けています。
たしかにたくさんの人が迷惑を受けたのは事実ですが、そこには悩みを抱えて電車に飛び込んだ人がいたことも事実です。一人の死がたくさんの人の「迷惑」と天秤にかけられ、死の方が軽んじられ、見えなくなりがちです。ACPをめぐる言説を見ていると、私はどうしても「まあ、迷惑な」という言葉につながるものを感じてしまいます。
「命って限りがありますけども、この、1日長く生きたからといって、変わらないじゃないかなと思うかもわかりませんけども、1日長く生きることによって、本人は分からなくっても、家族はすごくうれしいことだと思うんですね。私は妻と母を亡くしましたけども、やっぱり少しでも長く生きてほしかったし。まあ、世の中にはいろんなお医者さんがおりますけども、やっぱり患者さんに寄り添って、そして患者さんの命を何としてでも救おうという、そういう強い意志を持っているお医者さんになってほしいと思いますね。」(「最後の講義 落語家 桂文枝」NHK Eテレ 2024.3.20/医師・医学生への講義)
日下 隼人