No.252 見えないところで
コラム目次へ 医療面接演習の日、トイレで「どうしてあんなに患者に丁寧に接しなければならないの?」と憤懣やるかたないふうの学生の声を、模擬患者さんが聞きました。「壁に耳あり」です。タクシーやバスの中で、レストランや飲み屋で、病院や患者さんについての職員の会話(たいてい不平・不満、愚痴、悪口です)も誰かが聞いているものです。この学生は、同じトイレに模擬患者さんがいるとは気づかなかったのでしょうか、気づいていて聞こえるように言ったのでしょうか。
またある大学での演習で、とても「投げやりな」感じの面接をした学生がいたとのことです。面接後のディスカッションで「どうせホンモノじゃないんだから」と言って友人からも顰蹙を買ってしまいました。指導教員が助言した後の2回目の演習では、飲食店でのバイトでとても評判の良い接客をしているという「実績」を生かして、次の模擬患者さんから「非の打ちどころがない」と言われるような面接をしました。
一人目の学生を見て、「やっぱり駄目な学生はいる」「医者の家に育って、小さい時から『丁寧でない』親の態度を見てきたに違いない」などと思うこともできますし、「こんな教育ではだめだ」と憤慨することもできます。「どうしてあんなに患者に丁寧に接しなければならないの?」と言うことで自分を守ろうとするところに、その学生の危うさを見ることもできるかもしれません。二人目の学生は、演習終了後「やればできるんだ、どうだ」と鼻をうごめかしていたかもしれません。「能ある鷹は爪を隠す」でしょうか? もう15年くらい前、まだOSCEが試行段階の時、ある大学で医療面接を終えた学生が「『それは大変でしたね』は、頑張って言わなかったぞ」と誇らしく同級生に言っているのを見て、微笑ましく感じたことを思い出しました。
私は、こうした話を聞くといつも、「突っ張っている」感じがして「良いな」と思ってしまいます。なんらかの違和感は、きっと誰もが抱いています。「こんな演習になんの意味がある」「SPなんて何様だ」「うそっぽい」「共感的言葉なんて気持ち悪い」といった違和感を叫ぶ学生のほうが、何も言わない学生よりも、もしかしたら希望が持てるのかもしれない。演習終了後、爽やかにニコニコと「ありがとうございました、とても勉強になりました」と言うくらいの社交術を身に付けている学生は少なくないのですから、この程度の社会性がないことが問題だということは的外れではありません。でも、カリキュラムだからと唯々諾々とこなしていく学生や、教員や模擬患者が「喜びそうな」コメントをすらすらと言えてしまう「表層的」学生よりも、「突っ張っている」学生のほうが医療を変えていく可能性を持っていると思います。違和感を「あえて」表明していることに、「大きな流れに流されない」「長いものに巻かれない」力を感じます。変革の担い手になるのは、そのような人です(そのような人でも、その後の経過の中で「角が取れて」しまう人のほうがずっと多いのですが)。
「大変でしたね」と言わなかった学生、「ホンモノじゃないから」「どうしてあんなに患者に丁寧に接しなければならないの?」と思う学生の「言い分」を聞いてみるところから、私塾のような教育が生まれるのではないでしょうか。このようなことを言う学生を十把一絡げに「ダメ学生」としてしまうような教育は、人の芽を摘む「ダメ教育」なのだと思います。「この学生、面白そう」と見ることから、楽しい教育が生まれます。
10年以上まえのことですが、こんなブログをたまたま目にしたこともあります。
「SPさんのフィードバックはとても丁寧で、率直でありながらもこちらを気遣っている感じでとても勉強になった。いずれもずっと年上の人ばかりだったのでそもそも人としての年季が違うし。あ~こうすれば良かった、これ聞けばよかったと色々後悔しつつも発見が多くて非常に楽しい。また『こういう相槌をうってくれたのがとても嬉しくて、ほっとしました』と言ってもらったのがとても嬉しかった。その日寝るまでずっと」。30歳を過ぎて、子どもも居て、医科歯科大学に入学した女性でした(現在は中堅の整形外科医となっています)。
見えないところで、自分について語られることのほうがずっと多いのです、人生はいつも。だからこそ、自分の思いをはっきり言ってくれる学生を大切にしたい。
医学生とは医者になることのできる大学への入学を選んだ人であって、医者になると決まっている存在ではないということを、私たちは忘れがちです。事実、「自分は医者に向いていない」と、その途を断念した人も決して少なくはないのです※。医学生は「医者になっても良いな」と思っている存在であり、「どんな医者になろうか」と迷っている存在です。そんな人にとって、「医者として望ましい態度」が規範として提示され、「良い医者になってね」と叱咤激励する視線があからさまに迫ってくることは、きっと鬱陶しい。私たちにできるのは、「嬉しかった」思い出を贈ることだけなのではないでしょうか。(2016.09)
※「一人の医者をつくるためには多額の税金が投入されている」というようなことが言われがちだから、医学部に入ったのに医師にならないと言う人は、「どれだけ税金が無駄になると思っているの」「あなたのために、入試に落ちた人がいるのに」などと責められそうだ。だが、税金の投入には一定の「無駄」が算入されていると考えるべきである。無駄なく税金が使われるべきだという考え方は、「文系学部不要論」や「オリンピック選手の育成には多額の税金をかけているのだから、メダルも取らずに『楽しむ』などと言っていてはいけない」という批判、「こんな人が生活保護を受けている」「医療費に、こんなに税金が投入されている」という言説に通じる危険なものだと思う。
「あなたたちには多額の税金がかかっている」というような言葉は、医学生には呪縛にしか聞こえない。「それなら頑張ろう」とは思わないだろうし、「それなら頑張ろう」と突然思いだすような人は別の意味で危うい。私がこのように思うのは、学生運動時代に「税金泥棒」という言葉で人を貶めたことへの自省からでもある(その評価の是非はともかく、末端の人間をそのような言葉で罵倒することは適切ではなかった)。そして、医師になる途を選ばなかった人が、その経験をふまえて別の仕事をしていく時にも、税金は「生きてくる」。