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No.318 負の歴史

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 医療倫理について、倫理ジレンマから説き起こされることが少なくありません。トロッコ問題(線路を走っていたトロッコの制御が不能になった。このままでは前方で作業中だった5人は避ける間もなく猛スピードのトロッコに轢き殺されてしまう。この時たまたまA氏は線路の分岐器のすぐ側にいた。A氏がトロッコの進路を切り替えれば5人は確実に助かる。しかしその別路線でもB氏が1人で作業しており、5人の代わりにB氏がトロッコに轢かれて確実に死ぬ。A氏はトロッコを別路線に引き込むべきか?)を私は何度も聞きました。同じような内容を応用した他の課題もあります。このような事例に対して「決断」をする脳の部位についての研究もあります。でも、このような思考実験から医療倫理を語ることの意味がそれほどあるとは私には思えませんでした(全然無いとは思いませんが)。
 一方で、この国での医療倫理についての講演や資料では、なぜか日本の医療の歴史については余りふれられていないようです。医学研究における人体実験についての基本原則を明記したニュルンベルク綱領について説明されるときには必ずナチスの人体実験のことが語られますが、それならば第二次世界大戦中の731部隊のことや九州大学の生体解剖実験にも触れないわけにはいかないはずです。
 森永ヒ素ミルク事件、水俣病をはじめとするさまざまな公害事件において医療が果たした役割についても語られません。公害ではないと「医学的に」主張した医師たちの加害的役割、医学的な誠実さに基づいて患者の立場から研究・支援にあたった原田正純さんのような医師の存在、そうしたことについて学ばなくて良いのでしょうか 1)。自ら国に起きた「負の歴史」を、「なかった」ことにしないまでも、見ようとしないのは、「歴史修正主義」の謗りを免れないでしょう 2)。これらの事件には、差別の問題も色濃く影を落としています。そこから学ぼうとしなければ、この国の医療倫理を廻る論議はいつまでも深まらないと思います。そうした「大きな」事件と4分割法のような個人をめぐる問題とは別問題だと思う人がいるかもしれませんが、4分割の一つに「医学的適応」という大項目があるのですから関わりがないはずがありません。
 1971年、医科歯科大学の大学祭で水俣病についての展示を行おうとした医学部付属検査技師学校(現・医学部保健衛生学科・検査技術専攻)の学生たちは、学校長(医師)から参加を差し止められました 3)。身近なことと大きな社会問題は必ずつながっています。学生たちの活動を制限することが水俣病の患者の苦しみを踏みにじることだとは学校長は思っていなかったでしょう。反倫理的なことは、私たちの身の周りでいくらでも起きるのです。4分割して検討できても、分岐器をどうするか考えることができても、それだけでは反倫理的なことが忍び込む余地が無くなりはしないのです。 (2019.03)

1) 原田先生は、多くの医学部でも講義をしておられたようです。東京医科歯科大学では、衛生学の特別講義をされました。その講義を受講した学生の一人は小児科医になり、自己紹介文で尊敬する人として原田正純さんを挙げ「勇気と緊張感」を学んだと書いていました。プロフェッショナリズムを学んだとも言えると思います。重い実践に支えられた言葉しか人の心に届かないのだとあらためて思いました。

2) そのような営為が全くないわけではありません。「満州第731部隊軍医将校の学位授与の検証を京大に求める会」などの活動は今も続いています。2015年に九州大学医学部教授会は医学部医学歴史館に生体解剖事件を解説する説明パネルを設置することを決定しました。

3) 50年近く前、小さな大学の付属学校に、ほんとうにささやかだけれど学生たちの真摯な活動があったことの記憶を書き留めておきたい。また当時、少なくない看護学校で先鋭的な活動や闘いがあり、挫折して看護の道を諦めた学生たちが少なからず存在したことも心に留め続けたい (特に日本大学や順天堂大学での闘いについて)。

コミュニケーションのススメ 日下 隼人 コラム

● 本コラムの内容は、著者 日下 隼人の個人的な意見であり、マイインフォームド・コンセントの法人としての考え、および活動に参加しておられる模擬患者さんたちのお考えとは関係ありません。

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