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No.278 「医者がなんやねん」

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 小学校の同窓会で京都に行ってきました。50年ぶりの参加です。
 今にして思うと、私は「小生意気で鼻持ちならない嫌味なガキ」でしたので、これまでも案内はもらっていたのですが「恥ずかしくて」とても参加する気にはなれませんでした。でも、そのような私なのに、ずっと仲良く遊び相手になってくれた何人かの人たちがいました。彼らに、生きている間にどうしても一度お礼を言っておかなければとも思い続けていましたので、体調が少し悪かったのですが「意を決して」参加することにしました。
 前回同窓会に出席したのは、大学に入った1967年でした。その時、医学部入学を報告した私に「医者がなんやねん」というようなことを言った同級生がいました。言葉は正確に覚えていないのですが、「医者がなんぼのもんやねん」というようなニュアンスだったと思います。そのとき、その言葉に全く違和感がなく、「そう思うだろうな」と感じたことをはっきりと覚えています。
 大学進学率がさほど高くはない時代だということもありますし、「東京なんて、カッコつけて」というような感覚もあったかと思います(「都落ち」と思う人は今でもいます)。でも「そうだろうな」と感じたのは、普通に暮らす人にとって医者という人種はきっと胡散臭いものだろうと思っていたからです。
 代々医者の家系に生まれ、親戚は医者だらけ、祖父の弟は京都大学医学部の教授という雰囲気の中で育った私は、親戚を含めてとてもたくさんの医者と出会う子ども時代を過ごしたのですが、見聞きする医者の雰囲気が嫌でした。漠とした「鼻持ちならない」感じを抱いてしまったのは、「閉鎖的」で「選民的」な雰囲気を漂わせている人種になじめなかったのだと思います(父も同じような感覚をもっていて、二人で反発していました)。大学に入って、医局解体をスローガンとする医学部闘争に飛び込んだのには、そのような感覚も一役買っていたと思います。
 プロフェッショナリズムという言葉になじめないのも、きっとそのためです。そこに「選民的」な雰囲気が抜きがたくあることに、私はなじめません。医者(医療者)だけが集まってプロフェッショナリズムを語る「閉鎖性」が気になります。そのような意識がますます医者と患者さんとの間に壁を作るような気がします。それって格差社会への加担でもあるのではないでしょうか。
 「腕の良い職人」「達人」で何が悪いのかが、私にはわかりません。滝浦真人は、カタカナ言葉には「“これまでにはなかった”ニュアンスを出したいという使い手の願望がある」と言い、「“新しそう”で“わからない”カタカナ語の新しさが外来語の正体である」と言います(「日本語リテラシー」NHK出版2016。とはいえリテラシーもそんな言葉なのですが) 。自分に自信がないことによる自我防衛の一種だという人もいます(知性化)。だから、プロフェッショナリズムについての議論は、いつまでたっても「新しそうでわからない」ところをぐるぐる回っているのかもしれません。「そんなことをウダウダ言うてる医者ってなんやねん」と言われても仕方ないという気がします(私に「なんやねん」と言った人がすでに亡くなっていたことを同窓会で知りました)。

 「相手の人に通じる言葉で話すこと」、「自分の言っていることが相手の人に通じているか確認しながら話すこと」は、人と人とが付き合う時の最低限の礼儀です。相手の人にわからない言葉を話す人は、相手を人として見ていないのです。「これくらいの言葉はわかるはずだ(わかって当たり前だ)」(透明性の錯覚)と思えば、回路は閉ざされてしまいます。
 医者の言葉は患者さんに通じないのですが、患者さんの言葉も医者には通じていません。透明性の錯覚に囚われているのは医者だけではないので、その構造の解決は医者だけでできることではありません。でも患者さんは「いま身にふりかかっていることがうまく捉えられないから、ことがらを心の内にうまくマッピングできない。だから、相手との距離を測ることも出来ない。そこにマナーを求めるのは酷というもの」(鷲田清一「『自由』のすきま」角川学芸出版2014)なのですから、「医者にわかる言葉で話して」と求めることはできません。回路はもともと閉じているのです。
 都民ファーストと言っている知事がいますが、その話の中には頻繁にカタカナ語が出てきます。「“新しそう”で“わからない”カタカナ語」で人々を煙に巻いている姿は、決して都民ファーストではありません。そのような人のことは、それだけで信じないほうがきっと無難です。カタカナ語をいっぱい使いながら、「患者中心」「患者本位」と言っている人も似たようなものです。

 ところで、「小生意気で鼻持ちならない嫌味なガキ」だった私は、必然的に(?)中学・高校時代は目もあてられないような「恥じ多き」時を過ごしてしまいましたので、その同窓会に参加することはこれまでもできませんでしたし、この先もきっとできないでしょう。(2017.08)

コミュニケーションのススメ 日下 隼人 コラム

● 本コラムの内容は、著者 日下 隼人の個人的な意見であり、マイインフォームド・コンセントの法人としての考え、および活動に参加しておられる模擬患者さんたちのお考えとは関係ありません。

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