No.428 医療コミュニケーションは「死へのお導き」のためのものではない!
コラム目次へ 医療コミュニケーションや倫理についての言説の中には、医療の現状の問題点との対峙を避けて、現行の医療を追認ないし加速しているものが少なくありません。コミュニケーションを深めることも医療倫理を考えることも、医療の流れを補完し側面から肯定していく(都合よい「お墨付き」を付与する)ためのものではないはずです。
医療の場のコミュニケーションは、医療を「脱構築 1)」するためのものだと私は思っています。医学(医師)が決めつける「健康」「正常」の意味を問い直し(意味は再定義されるというよりは、患者さんとの関係の中で日々作り替えられていく)、その結果として実際の医療の中味を「教科書」から少しずつずらし組み替えていくためのもの。
「する者=医療者」-「される者=患者」という関係を流動化させ、時には逆転させて「患者―医師関係の脱構築」をしていくためのもの。それは、医療の/社会のありようを脱構築していくことに通じるものだと思います。その視点が感じにくいコミュニケーションについての言説は「なんか違う」と感じています。
もう30年以上も前のことですが、そのころ、「流行り」の岸田秀さんの本をまとめて読みました。
「人間は、常に自分を正当化する存在なんです。・・・そのジャスティフィケーションが自我ですよね」(岸田秀・伊丹十三『哺育器の中の大人』朝日出版社1978)。「自己正当化以外の物語は作れない。・・・(そうしないと)自我が保てない」(岸田秀『嫉妬の時代』飛鳥新社1987)。
R.D,レインは「自己のアイデンティティとは、自分が何者であるかを、自分に語って聞かせる説話である。」と言っています。
「病む」と言う非日常の時だからこそ、患者・家族は病気と「闘い」ながら(時に共存しながら)自分の人生の物語を書き直す=アイデンティティの再構築を迫られているはずです。そう考えると、入院していた子どもたちの親にしばしば見られた、(医療者からみれば)「不可解な」/「不快な」言動も納得できました(私は、いつも「まあ、まあ」と宥めていただけでしたが)。
アイデンティティなしに人は生きていけないのだとしたら、治療をするだけではなくアイデンティティの再構築をしていることを支えられなければ「患者さんが生きることのお手伝い=医療」は不完全なものでしかないと思い至りました。そのために、患者さんと医療者とのコミュニケーションを深めたいと思ったのでした。
医療コミュニケーションを「死の選択へのお導き」のためのものにするために、私はコミュニケーション教育のお手伝いをしてきたわけではありません。(2024.12)
1) 「脱構築」は哲学者ジャック=デリダの言葉ですが、私が勝手に読み替えています。
日下 隼人