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No.354 「枕」が良くなければ

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 「今日はどうされました」、「今日はどんなことでお困りなのか教えていただけますか」、(予診用紙や看護師の事前聞き取りを見て)「今日は○○でお困りだということですね」というような言葉から始まり、「それではお身体を診察させていただいてよろしいでしょうか」までの、外来診察での医師と患者さんとのやりとり(インタビュー)の前半は、落語の「枕」のようなものです。
 落語は「枕」と本編、そしてオチで構成されており、この3つは一連の流れのものです。高座に登場した噺家が、観客に対する感謝の意や自己紹介、時節や時事に軽く触れ、演じる落語の演目に関連した話をするのが「枕」です。ここで、観客をある程度ほぐしながら、そのときの会場の様子を確かめます。「枕」はお客さんが本編に入りやすい状態に、その心をほぐす役割を兼ねています。
 その意味で、医療面接演習やOSCEでの面接は、診察のほんの一端=「枕」の場面を見ているにすぎません。「枕にすぎない」のに、「あの情報が得られていない」「この質問が抜けている」「患者の心理的背景について尋ねていない」などと言われても、言われた方は実のところ困ってしまいます。実際の診察では、ある程度患者さんのお話を伺ったところで、身体診察に入ります。そこで、医師は言葉をかけながら診察し、診察の合間にいろいろな質問/会話をしていきます。診察をしているうちに質問を思いつくことは普通のことですし、「聞き忘れていた」ことを思い出すこともあります。患者さんは、その医師の言葉/自分に触れる医師の手つきを通してその医師を「評価」し、自分がどのように話すか/どこまで話してよいかを判断していきます。医師が診察する「手」は、口ほどにものを言っているのです。身体診察が一通り終わったところで、医師はあらためて、自分がそれまでの患者さんを見ることで感じた「患者さん像」に沿って、質問を含めた説明/会話を進めていきます。診察前のインタビューではあえて聞かなかったこと、「最後に聞くことにしよう」と思っていたことも、ここで尋ねます。そこでは、これまでの経過をふまえて、医師と患者の双方が、相手の気持ちを推し量りながら会話を進めています。
 だからこそ「枕」は大切なのです。患者さんの心を「ある程度ほぐしながら」「本編に入りやすい状態」(=いろいろなことをこの医者に話しても良いと感じられる状態)になってもらうために、身体診察前のインタビューはあるのです(身体診察の役割も半分程度はそのためにあります)。それまでの会話や診察の手を通して心を通わせることができなければ、プライバシーや心に関わるような「深い」話はもちろんできません 1)。いろいろ尋ねても、答えてくれません(通り一遍の浅い答えしか得られません)。尋ねられれば尋ねられるほど不愉快になることもあります。得られる情報の量も信頼の深さも、この始まりの時間によって大きく変わります。下手な「枕」の後で落語が滑ってしまうのと同じです。そこでは、技法と心が分かちがたく絡みあっています。「歌はな、テクニックじゃないんだ。心だ。ただし、心で表現するためにはテクニックが要る」のです(「王様のレストラン」範朝の台詞 No.249でも引用)。
 「もしも・・・『病』を雨に例えるなら、私は傘をさしかけてくれるだけでなく・・・ともに・・・濡れてほしいのです」(中村ユキの漫画の言葉 夏苅郁子『人は、人を浴びて人になる』ライフサイエンス出版2017 No.324でも引用)「枕」は「一緒に濡れてくれそうだ」と感じてもらうためのものなのです。そう感じられてはじめて、患者さんは大切なことを話し出してくれます。
 医療面接演習やOSCEで評価されるべきは、そこでのやりとりが「枕」として良かったかどうか、つまり相手の「心をつかむ(そのような雰囲気を醸し出す)」ことができたかどうかということです 2)。だからこそ、医療面接演習で最も信頼できる評価項目は、模擬患者さんの「また、この医者にかかりたいと思いましたか」という項目なのです。AIによってOSCEができると考える人も「コロナのためにAI診療が進む」と言う人も「AIが医療の限界を打破する」3) と言う人もいますが、ほんとうにそうなのでしょうか。(2020.09)

1) プライバシーや心の問題について躊躇なく尋ねる人に対して、尋ねられた人は身構え、しばしば心を閉ざします。滝浦真人さんは「人の感情について尋ねることができるのは上位の人だ」と言っています(『日本語とコミュニケーション』NHK出版2015)から、それだけでも傷つく人はいるでしょう。人は言いにくいことを伝える時には遠まわしの言い方をしたり、言いよどみながら話したりするのが常ですから、深刻な質問を突然ぶつける医者のことを「まともな」人ではないのではないかと患者さんは感じてしまいます。「私たちは子供の頃から友人のプライバシーにも立ち入り過ぎないように常に気を遣ってきた。それなのに、見ず知らずで年齢も異なる患者さんにどこまで踏み込んでもプライバシーを侵すことにならないか、わからない」と言う医学生に対して、ある模擬患者会の代表の方が「医療は患者の究極のプライバシーと向き合う仕事だから、敢然と向き合ってほしい」と言ったという話はNo.260で書きました。でも、ここでは、「迷う」医学生の感覚のほうが自然です。まだシロウトの感覚に近いところにいるからです。
 広島の「ばっちゃん」=中本忠子(ちかこ)さんは、毎日市営住宅の自宅で、多い時には3 升のお米を炊き、小学生から21歳までの少年たち3〜10人に無償で食事を提供しています。「どうして続けているのか」と問われた中本さんは、「子どもから直接『助けて』と言われたことの無い人にはわからないだろう」と答えます。「その経験がない人に、何を言ったってわかりゃせん・・・・・電気もガスも止められた家の子。暴力団の家族の仕事、母の薬物注射を手伝わされる子。そんな『重たい』環境にいるから、来ても『よう来たの』としか言わない。お腹(なか)いっぱいになればいずれ『聞きたくないことまで』話しだすから」。
 NHKテレビドラマ「透明なゆりかご」第6回「いつか望んだとき」では、「中絶手術を受けるためには、女性は本名を名乗らなくていい、パートナーの同意書も必須ではない、つきそい一人がいればよい」とする老産科医の夫婦が描かれます。山奥の看板も無い診療所の医師夫婦が、来所した少女に何も聞かずに明るく迎え、処置後に優しく「またおいで」と帰したのは、20年前、説教をして帰した高校生が帰り道で自死したからでした。「何にも聞かずに手術してあげて、キレイにして帰してあげれば、死ぬようなことはなかったね」と医師夫婦(No.305でも書きました)。
 「どこまで踏み込んで良いか、迷う」気持ちを忘れずに、「黙って待つ」「あえて聞かないでおく」ことも「敢然と向き合っている」ことなのだと、若い人たちに伝えることがプロフェッショナリズムの教育です。

2) 診断結果や今後の治療方針、予想される予後などについて、患者さんに説明する面接演習やOSCEもありますが、それらはもともと「枕」の出来・不出来に左右されることですから、それ抜きには表層的な演習/試験にしかなりえません。

3) 医師の診療の補助ツールとしてのAIはうまく使えばきっと役に立つと思いますが、医者がAIによる診療の補助ツールになる可能性も小さくはありません。「AIの診断に従ったのだけれど/AIの指示通りにしたのだけれど、どうしてうまくいかないのかなあ」「AIが示しているのだから、間違いありません」と。そして、AIに対面して、「良かった、これで安心」とまるで「地獄で仏」に出会ったような、ホッとした気持ちになる患者さんはいません。


日下 隼人

コミュニケーションのススメ 日下 隼人 コラム

● 本コラムの内容は、著者 日下 隼人の個人的な意見であり、マイインフォームド・コンセントの法人としての考え、および活動に参加しておられる模擬患者さんたちのお考えとは関係ありません。

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