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No.411 〈社会-家族-個人〉の三つ巴の中に

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 自分の弟がダウン症だとツィッター(当分の間Ⅹとは書かない予定です)に書いた作家がいます(岸田奈美さん) 1)。そのツィッターに対して、「ガイジ(障害児)は生きる価値なし。死ね」と返信があり、その人とやりとりしたところ、その人自身が障害者で、子どもの時からそのような言葉でいじめられ続けてきたこと、そして手当たり次第に攻撃していたことが分かったのだそうです。生きることのつらさが、自分が受けた差別への恨み/悔しさが、このような形で「発散」されることは少なくないのかもしれません。

 SNSの界隈では、障害者や闘病者のツィートやブログに対して「嘘だ(誇張だ)」「同情されたいのだろう」「自己顕示だ」「生きてる価値がない」「死ねばいい」といった言葉が必ず投げかけられています。外国人へのヘイト発言、社会の問題を指摘する人に対しての「反日」発言も、絶えることがありません。そこには論理もありませんし、冷静に話し合うという姿勢もありません。匿名で罵声を浴びせることで得られる一時的な快感が大切なのでしょうか。

 どの発言も「ひどい」のは確かです。でも、何を言ってるかではなくて、どうしてそんなふうに言ってるかに目を凝らさなければならないのだと思います。このように言ってしまう人は、どこかに、なんらかの「生きづらさ」「生きることの覚束なさ」を抱えているのかもしれません。
 それならば私たちと本質的には変わらないのではないでしょうか(「程度が違う」と言われるかもしれませんが)。そこのところで、つながる回路を探ることを諦めてはいけないのだと思います(罵声やヘイト発言を認めることは絶対にありませんが)。

 「障害は、障害です。個性でもないです。歩けない母(車椅子ユーザー)やダウン症の弟は「障害は素晴らしい個性だ」「障害があってよかった」なんてきれいごと、きっと思ってないです。たぶん思えません。それでいらん苦労もしてきたはずだから。本当の障害は、本人にあるのではなく、それが苦痛にならない工夫や成長が追いついていない社会にあります。」(岸田さん)
 「発達障害について、どんなに自分の子どもが育てづらくても、周りの子と様子が違っても、他の親や理解のない支援者からの安易なアドバイスがうまくいかず悔しい思いをすることがあっても、取り除くべき「障害」は子ども自身にあるものではなく、社会全体にあるということだけは忘れないでください。」(あるツィッター)

 でも、信田さよ子さんは、「障害の社会モデルというのがありますよね。個人の内面ではなく個人と社会の接地面からケースを見るべきだという議論は、臨床心理学でも深まりつつあるけれど、私にはちょっと違和感があるんです。社会というマクロの単位と個人というミクロの単位の間にある、家族と言う中間項を考慮しなければ 2)、妻=パートナーの苦境も、息子や娘たちの苦悩も、まして虐待やDVも考えることはできない」と言います(臨床心理学 増刊15号 『あたらしいジェンダースタディーズ』金剛出版2023)。

 きっと「社会にすべての責任がある」と言い切ることも難しい。ケアは〈社会-家族-個人〉の三つ巴の渦の中に(それこそ一切の先入観を排して)飛び込むことからしか始まらないのだと思います。

1) 岸田奈美さんの本『家族だから愛したんじゃなくて、愛したのが家族だった』小学館2020
 2023年5月、NHK BSプレミアムでドラマ化されました。

2) 『家族と国家は共謀する』(信田さよ子/KADOKAWA2021)のであり、「家族は、社会の自然かつ基礎的な単位として、尊重される。家族は、互いに助け合わなければならない」(2012年自民党憲法改正草案)という文言にはその「意思」が表われています。


日下 隼人

コミュニケーションのススメ 日下 隼人 コラム

● 本コラムの内容は、著者 日下 隼人の個人的な意見であり、マイインフォームド・コンセントの法人としての考え、および活動に参加しておられる模擬患者さんたちのお考えとは関係ありません。

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