No.260 プライバシーを侵したくない?
コラム目次へ ある模擬患者会の代表の方が、最近の医学生が医療面接の振り返りで「私たちは子供の頃から友人のプライバシーにも立ち入り過ぎないように常に気を遣ってきた。それなのに、見ず知らずで年齢も異なる患者さんにどこまで踏み込んでもプライバシーを侵すことにならないか、わからない」と言うことが気になると言っておられました。そして、「医療は患者の究極のプライバシーと向き合う仕事だから、敢然と向き合ってほしい」とも。
「患者さんのプライバシーにどこまで立ち入って良いかわからない」という言葉は、私も演習で何度も聞きました。でも、「そういう仕事だから敢然と立ち入って良いのだ」という意味のことを言ってしまうと、ほんとうに躊躇せずにどこまででも遠慮会釈なく入っていく人が出てきそうで怖い。このような言葉を聞いたとき私は、「医者は否応なく患者のプライバシーに立ち入ってしまう仕事なのです。今のあなたは立ち入って良いのだろうかと悩んだけれども、そのうちに立ち入ることをなんとも感じなくなってしまうものです。だから、今日感じたような戸惑いの気持ちをぜひ忘れないでいてください」という意味のことを言っていました。
ちょうど同じ時期に、医学書院の白石正明さんに「介護するからだ」(細馬宏通著)についての感想メールを送ったのですが、次のような返事をいただきました。「つまりマニュアルというものは、現在『できていないこと』を前提に『こうすればできる』を、教える側にとって便利な形で述べたにすぎないものですが、この本は(あるいはケアをひらくシリーズは)『お前は既にできている!』を基本コンセプトにしています(これも今思いつきました!)。すでに出来ているのに出来ていないようにしか見えない観察の貧困、あるいは出来ていないようにしか語れない言語の貧困こそがテーマなのかもしれませんね・・・。」(「お前は既にできている!」は「お前はもう死んでいる!」へのオマージュ??)
「プライバシーに立ち入ってよいのだろうか」と悩むことが「既にできている!」のに、それを未熟なこととみなして介入してしまうのが「教育者」の陥りがちな陥穽であり、教育の現場では同じような構造がいたるところで見られます。
もっと堂々とプライバシーに立ち入らないと主張する人たちもいるようです。
「患者担当の若い医師たちに、患者背景を根堀り聞いてみると『そんな個人情報は聞けません。プライバシーの問題ですから』と素っ気ない」と福岡大学小児科の廣瀬伸一教授が書いておられます。(チャイルドヘルスVol 19.9 2016.9 )廣瀬先生は、このように続けます。「もちろん、面と向かってあからさまな質問を繰り出せば、相手も貝のように口を閉ざし、その後の患者医療者関係を崩壊させかねない。私の場合、患者の重要な情報は大概、患者やその家族との雑談で得ている。かといって個人情報を得るために雑談をしているわけではない。単に診療の合間にたわいのない会話をしたいだけだ。私にとって慰みといってもよい。最近、もしかして、若い医師にとって『雑談は慰みどころか、苦痛にすぎないのではないか』と思い至るようになった。」
そして、そのあとに「他者への興味は愛に根ざし、愛が湧かない対象には興味も生まれない」と書いておられます1)。私も同じように患者さんや家族と雑談ばかりしていましたのでこの文章にとても嬉しくなり、このような大学からは素敵な小児科医が生まれそうだと少しワクワクしてしまいました。コミュニケーション教育についての「専門家」(とご本人は思っておられないかもしれませんが)との新たな出会いにも。(2016.11)
1) 「患者がどのような病を患っているかを知るよりも、どのような患者が病を患っているのかを知ることの方がはるかに重要である。」(W.オスラー)