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No.317 普通の暮らしがなければ

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 「臨床倫理4分割法」を用いてチーム・カンファレンスを行っている医療現場は少なくないようです。「臨床倫理4分割法」とは、Jonsenらが1992年の著書『Clinical Ethics』にて示した倫理的な症例検討の考え方で,「医学的適応」「患者の意向」「QOL」「周囲の状況」という4つの大項目があり、大項目ごとに確認すべき数個の項目があげられています。
 ある勉強会(もう3年くらい前のことです)で「4分割法も患者を対象化しており、人間の生を分断化しているのではないか。分断化して分析することはできても、そこで立ち止まってしまうことが少なくない。分析的な考え方が身につくだけでは、あまり良い方法とは言えないのではないか」というような意味のことをお話ししました。それに対して「倫理の4分割法を学ぶことで、やっと医者も医学以外の側面から患者を見ることができるようになってきたところなので、私はそんなふうに否定的には考えていないのですが」と、その場におられた医師から指摘されました。確かに私たちの世界はやっとそのあたりに辿りついたところなのだと思います。それに、このような方法が医療者間のチーム・コミュニケーションに役立つことは確かですし(チームで検討しないと各項目が確認できない)、ここから患者さんの参加するカンファレンスにつながる可能性も十分にあると思います。
 「人の良いところを見なければ」とふだんから言っているのですら、「方法」についても良いところをみなければと私は反省しました。この方法を日本に紹介した白浜雅司さん(故人)とは、4分割法について何度かお話ししたことがあるのですが、その時も私はその限界についてばかり話していたような気がします。彼は嫌な顔をせずに私の話に耳を傾けてくれていたのですが、申しわけないことをしたと今にして思います。その思いを伝えることは、もうできないのですが。

 チームでカンファレンスするときに、なるべく医者はカンファレンスの中心にいないほうが良いと私は思います。
 カンファレンスでは医学・医療を相対化する視力が欠かせません。そうしなければ、分析したものを統合することは難しいのです。大切なのは患者さんの人生であり、患者さんの「思い(意向)」です。「患者の意向」という項目は、他の3項目とは重さが違います。他の3項目は、「患者の意向」を尊重するためにどうすればよいかを考えるための項目なのです。そう考えれば、医療の枠組みを、患者さんの思いや都合、その人生に応じて、多少なりともずらし、可能な範囲で軌道修正していけるように、患者さんと「一緒に」模索するというプロセスなしに、分析されたことがらを統合することはできません。とすれば、患者さんの参加しないカンファレンスは、ほんとうはあり得ないはずです。倫理は結論にあるのではなく、このようなカンファレンスのプロセスそのものの中に生きるのです。でも、医学・医療を相対化する視力がいちばん弱いのは医師ですから(最近看護師のなかにも視力が低下してきている人がいるようだ)、カンファレンスの中心にいないほうが良いのです。
 医学・医療を相対化するということは、現在の医学の在り様や流れを「正しい」⇔「誤っている」のどちらかに断じるということではありません。固いことを言っているわけではなく、ちょっとだけ「医学の世界・論理」を突き放して、「いなして」見る技を身に付けるということです。不動の堅固な体制に見えるものも、視点を変えたらずいぶんヤワなところがあるはずです。そうすれば、別様の関わり方が見えてくるでしょう。医療者が医療にがんじがらめに絡めとられてしまったら、患者さんの「生」も医療にがんじがらめにされてしまいます。数学の先生だった森毅さんは「学校のアホらしさを笑い飛ばす」精神を語っていました(『教育舞芸帳、学校を笑え』太朗次郎社)。医療については「アホらしい」とはなかなか言えないのですが、反発するとか否定するということではなく、肌がぴったりとくっついてしまわない程度の、ほどほどの距離でつきあっていくことができればと思います。そういう道案内ができることは、医療者の「芸の内」です。

 そのためには、医者は自分の「普通の人としての暮らし」を深めていくことが大切なのだと思います。社会的に比較的恵まれたポジションを生きてきている人が医者には多く、それだけに努力しなければ「普通の人としての暮らし」は深まりません 1)。気の遠くなるような極微の世界=分子生物学や遺伝子レベルでの探究に没頭しなければ医学研究ができない今日、研究者として生きながら「普通人としての暮らし」を深めることを求めるのは酷というものかもしれません(両立している人ももちろんたくさん居ますが)。
 「普通の人としての暮らし」を深める姿勢を育む医学教育は可能なのでしょうか。医者とACPの関わりの危うさも、そのあたりにもあるような気がしています。これも私の偏見かもしれませんが。(2019.03)

1) 「普通の人としての暮らし」とは、食事・排泄・性・睡眠を日々行い、仕事をし、買い物をし、近所づきあいをし、娯楽・趣味を持ち・・・といった生活の積み重ねのことです。自分の考える「普通の人としての暮らし」を丁寧に生きていかなければ、自分の考える「普通」に至らない暮らしは見えてきません。それを見ることは、自分の考える「普通」の危うさに気づくことです。見ても気づかない人は少なくないけれど、その危うさに気づかなければ「貧困」、「差別」、「障害」、「学力」、「家族の問題」、「病む人の気持ち」「高齢者の気持ち」・・・といったことのどれも見えてこないのです。「貧困」を絶対的な飢餓としか考えていなければ、「相対的貧困」は見えてきません(そのような政治家がしばしばいますが、政治家の場合は、見えていないのか、見ないことにしているのか分かりません)。
 自分には見えていない広大な世界があり、それが見えていないところで他人=患者さんの人生を左右する言葉を発することの怖さに包まれることなしに、倫理性は生まれないのではないでしょうか。「神の視点」のように、人の人生を睥睨する立ち位置からの倫理はあり得ないのです。つまり、医者が倫理を語ることはとても難しいのです、ラクダが針の穴を通るほどではないと思いますが。

コミュニケーションのススメ 日下 隼人 コラム

● 本コラムの内容は、著者 日下 隼人の個人的な意見であり、マイインフォームド・コンセントの法人としての考え、および活動に参加しておられる模擬患者さんたちのお考えとは関係ありません。

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