No.241 良い医者?(5)
コラム目次へ 病気だとわかったら、その人は「名医」探しを始めます。テレビで「名医」「神の手」「スーパードクター」が次々報道され、医者の「選択を誤った」ため芳しくない経過をとった人のことが放送されます。となれば、名医・スーパードクターの診察を受けなければ「損」です。そうすることが、自分の病の「受容」に欠かせなくなります。
名医の根拠もまた、治療した人数や手術した人数、手術時間の早さといった数値や、新しい治療の開発(それまでの治療より本当に勝っているかの検証は必ずしも十分ではない)のような新奇さなどで表されます。医者の人間性が評価されることもありますが、評価者や状況によってばらつきが大きいので、「評判の良い」医者を受診しても、その医者が自分にとっての名医であるかどうかは付き合うまでわかりません。期待値が高ければ高いほど「ハズレ」の可能性が高くなります。テレビで「持ち上げられている」医者のような人がどこの病院にも居るわけではありませんから、患者は病院の評判・医者の評判を求めてインターネットで検索します。それで、そのような「評判サイト」がいっぱいできています。個人名を検索して調べる人もたくさんいます。ホームページをうまく作る業者が跋扈することになり、もはやどの病院のホームページも金太郎飴のように無個性になっています。
患者は「名医」かつ「良い医者」を求め続けることになります。たいていの医者にはどこか良いところがありますから、その良いところを見ることで、患者は「まあまあ許せる範囲内」の医者として認めることになります。そのような出会いが無ければ、あるいは、初めのうちは「ある」と思っていた「良いところ」を見失えば、その療養生活は耐え難いものとなります。
しかし、「健康に追い立てられ、しかも、人びとが進んでそのことを受け入れるように仕組まれた社会」において、「良い医者」こそがこの社会の枠組みを維持していくために欠かせない要素なのです1)。「良い医者」という存在が、「良い医療」への幻想を膨らませることで生権力を目隠しし、強化します。ますます人は生権力にからめとられ、「健康」に向かっていつまでも走らされます。もし、世間の医者がみんな「問題医者」か「やぶ医者」であれば、医療への「信頼」が生まれないので、生権力の支配する社会は成り立ちようがありません。「良い医者」「赤ひげ医者2)」が居るからこそ、人びとは健康による支配を進んで受け入れていくのです。「良い医者」が必須である以上、その存在を際立たせるために「悪い医者」の存在も必須です(ドクハラも保険の不正請求もワイセツ行為も)。だから、「悪い医者」摘発は終わることがありませんし、テレビドラマにもいつも名医・良医と対になって出てきます。マスコミはしばしば名医・スーパードクターについてことさらに称揚し、同時に医者批判を放送しつづけますが、それは大きな「社会的・政治的」役割を果たすための車の両輪なのです。マスコミや市民からの「医者が悪い」という批判に反発する医者は少なくありませんが、この構造の網の目を破ろうとしているわけではありません。
「医者になって人の役にたちたい」「人の笑顔が見たい」という医者の初心はかけがえのないものですし、どの医者にもその初心は日々の診療の中で生き続けていると思います。そして「生権力の担い手」であることを自覚しないかぎり、この医者の願いは日々満たされていき、その心の平安は保たれます。「良い医者を育てる」ことが医学教育の目的ですが、そのことが同時に「生権力の担い手」を作ることだという事実に対峙しない限り、いま流行りの「プロフェッショナリズム教育」もまた生権力を支えるものにしかならないと思います。(2016.05)
1) 交通安全のために毎朝笑顔で子どもたちの誘導に立ち、子供たちととても仲良しの「駐在さん」が、私の家の近くに居ます。でも、彼の後には間違いなく国家権力があり、彼は拳銃を発射する権限を持っています。「良い医者」の後にも生権力があり、医者は「診断書という拳銃」を発射する権限を持ち、この社会の統制に反するものを医療の枠組みの中へ「隔離・排除」しようとします。どちらも、善意から身を粉にして働いていることは確かですが、衣の下に鎧があることも確かなのです。
2) 「赤ひげ大賞」は、日本医師会と産経新聞社とが共催して設けています。