No.435 インフォームド・コンセントは双方向のもの
コラム目次へ 「医療の言葉をわかりやすくする」方策を真剣に考えている医師がいることは心強いことです。でも、こう言うことだって「主導権は医者にある」ということを暗黙の裡に語っているような気がします。
私はずっと「わかりやすい言葉」について書いてきましたが、そこにも「主導権は医者にある」という匂いが付いているかもしれないとあらためて思いました。
「患者さんにわかりやすい言葉を」という努力は欠かせませんし、大きな意味がありますが、そこに専門家—非専門家(素人)という権威勾配が消えているわけではありません(強化されている可能性もあります)。
話の流れは圧倒的に医者からのほうが強い。患者さんの質問/インターネットなどで得た知識を踏まえた言葉が、急流を遡上する鮭のように流れに「逆らい」ますが、患者さんはしばしば鮭のように傷つきます。
「そこでの素人は、『専門家ではない者』という否定的定義以外の位置づけを、生活世界における公共的コミュニケーションにおいて与えられていないのではないだろうか。」
「科学者は『説明する人』であり、素人はそれを聞く人であるという立場上の不均衡がある。・・・・今度は『知らしむべし、而して依らしむべし』という方向が明白である。そこでは、素人の『感情的』発言は、専門家によって『治療』されるべき症状の開陳でしかない。・・・ここでの問題は、素人の学習や専門家による『啓蒙』によって解消されるような性質のものだけとはいえないという点にこそ存在しているのである。」
「『素人』の感情的表現を討議の中に組みこめるような命題へと『翻訳』したとき、そこにある種の意味の変容が発生することは『翻訳』というものの性質上、或る意味では必然的である。・・・・『翻訳』の必要性が云々されるということは、『素人』の感情表出を、そのままに(そして真面目に)カウントすることのできるコミュニケーションのシステムを、われわれが今のところは持っていないことを意味している・・・。」(水谷雅彦『共に在ること 会話と社交の倫理学』岩波書店2022)
医者の説明が、患者さんの腑に落ちなければインフォームド・コンセントは成り立たちませんが、それは最低限のことです。
インフォームド・コンセントは、「生きる希望」と「ひとりじゃない」という思いが患者さんのなかに生まれるように「お互いに支え合い、手探りで一緒に進んでいく」つきあいを生み出すためのものだと私は思っています。
でも、それはエンパワーメント(患者が主体性を持ってプロセスに積極的に関われるように働きかけること)という言葉とは同じではないと思います。(このことについてはNo.255にも書きました。)
インフォームド・コンセントの主役は患者です。インフォームド・コンセントは、暮らしの/ふだんの言葉で語られる患者さんの希望・意思について医療者が納得し、病気についての医療者の説明を患者さんが納得し、それぞれの納得の上で双方が合意するという双方向性のものとなってはじめて「成立」するのです。片方で50%ではなく、片方だけではほとんど0%に近い。
患者さんの言葉が医療者の「腑に落ちて」いなければ、インフォームド・コンセントにはなっていないのです。
そのためには、医療者は医学の言葉を分かりやすく説明できるだけではなく、自分の中にある普通の人の暮らしの言葉の手触りを研ぎ澄ませていくことが欠かせないと思います。
そうでなければ、患者さんの心に希望の灯を灯すことができないでしょう。そして、その過程が医療者の心に希望の灯を灯してくれるのですが、その“恩恵”に医療者は気づきにくい。(2025.04)
日下 隼人