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No.265 世界は差別に満ちている?

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 昨年、69歳になりました。2017年に古希を迎えると思っていたのですが、数え年で計算するものだと気が付いた時には、通り過ぎていました。
 「お若いですね」と言っていただくことが何度かあり、そのつど嬉しくなっていたのですが、このような言葉で嬉しがることは「高齢者差別」であると書かれているツイッターを読んでしまいました。それで、これからそのような言葉を聞いた時にはどんな顔をしようかということにも悩みますが、どうしても「舞い上がる」自分の気持ちとどんなふうにつきあうかということのほうが大問題です。
 逆に「私はもう歳なので」と言いますと、「歳だなんて言わないでください」とか「そんなこと全然ありませんよ」とたいてい言われます。もちろん、みなさん好意で言ってくださっています。慰めてくれている人もいるかもしれません。「歳なので」と言う人は「まだまだお若い」と言われることを期待しているだろうと考えて、そう言ってくださるのかもしれません。
 でも、当人が「高齢者」として自己定義しようと思い、「高齢者として生きていこう」と決意している場合には、「まだまだ」「そんなこと言わないで」といった言葉がその思いを「抑圧」するものになります。自分のことを自分で「定義する」ことが許されないとしたら、善意からの言葉であっても「抑圧する」力を持っていますし、どこかで差別につながってもいるはずです 1)
 国籍、出自、信仰、思想、性別、年齢、性的指向、身体や心の障害などをめぐる差別的な言辞・ヘイトスピーチはツィッターの中を駆け巡っています(日常会話の中でも)。いまや、「人権」や「平和」「戦争反対」すらヘイトの対象です。そのような言葉を平然と口にする政治家(党派にかかわらず)も学者も作家もいます。そして、ヘイトスピーチを言う人々に対して、対峙するはずの人たちからヘイト的な言葉が投げかけられるという惨状も見聞きします。
 私たちの普通の暮らしの中のなにげない言葉の中に、差別や抑圧が入り込んでいます。サヨクを非難するツィッターで、サヨクの人のことを「左利き」と表現をしている人がいました。その言葉に「少数派」「変わった」などいくつもの差別的意味合いが込められています。つまり、この人は「左利き」の人のことも、そのように見ているのです。右利き中心の社会でいろいろ不便なことがずっとあり、しばしば奇異の目で見られてきた左利きの身として(食事や文字を書くたびに「左利きなんですね」と言われることだって面倒くさい)、私はこの人はそうした人間の「不快感」「つらさ」について全く無自覚なのだと思ってしまいました(最近では「左利き」がかなり市民権を得てきているのは事実ですが、それでも状況は基本的に変わっていません) 2)。無自覚なまま言葉を発することが、自動的に差別・排除につながります。
 「私は男性なので、若い女性に甘いんですよね」というような、食事時や飲み会でありがちな言葉の中に、何重もの差別があることに気づかない人もいます(私はこれに近いことを言って、すぐに自己批判して言葉を取り消したことがあります)。
 このような事例は、むしろ日常生活のあたりまえの光景です 3)。そして、そのことを指摘されても居直る人が少なくありません。「そんなつもりはなかった」「考えすぎ」「事実は事実だもの」「固いことを言うな」・・・・などと。
 差別や侮蔑・抑圧を指摘されたとき、「もの言えば唇寒し」と思うのならばまだしも(いや、そう思うことも十分に問題なのですが)、「言論の自由の侵害」だとか「ポリティカル・コレクトネスは鬱陶しい」と言われると寒々しい気持ちになります。差別的や侮蔑的な言葉を「堂々と」言うほうが真理を語っており、カッコよい行為だと認めるような雰囲気はアメリカの大統領選挙でも見られましたが、日本のほうが重症であるような気がします。ポリティカル・コレクトネスに相反する思いは避けがたく誰の心にもありますし、そのような思いに「素直に」なることにある種の快感があることも確かですが、その思いを抑えてコレクトネスを重ねてきたのが人類の知性です。
 コミュニケーションにかかわる人間としては、自分の言葉には気をつけていきたいと思います。そうは思っていても、つい言ってしまうことがあるかもしれません。そのことを指摘されることがあれば、見苦しい言いわけや「不快に思わせたとしたら、お詫びしたい」などという謝罪とは無縁で傲慢な言葉を言うことなく、率直にお詫びしたい。それでも、指摘してくれる人はごくわずかしかいないのでしょうから、「いやだな」「なんだコイツ」と思いながらもニコニコとつきあってくださる方が居られるはずだということを忘れないようにしたい。(2017.01)

1) 自分の「歳だ」という自覚を承認してもらうためには、他人のことを「貴方ももう歳なのだから」とか「いい歳をして」(「若僧のくせに」も)などとは言ってはいけないのだと思う。自分を認めてもらうためには、他人を貶めたり攻撃したりしないことは必須のことであると思う(批判や議論を交わすことは欠かせない)。ただ、高齢者が「自分は若いから、まだまだ運転は大丈夫だ」というような場合に、その生理機能の老化について指摘することは次元が少し異なる。認知症の人とのつきあいには、また別のいろいろなことがあるようだ(たとえば、本田美和子「ユマニチュード入門」医学書院2014)。

2) 「これだからウヨクは」などと言いたいわけでは全くない。「サヨク」と言われる人たちの発する侮蔑語・差別語を、私はこれまでいやというほど耳にしたし、自分でも言っていた。警察官に向かって「犬」とか「人殺し」などと言うのも、その範疇に入る(私は、こういう言葉を言ったことはない)。だからと言って、言われた警察官が相手を「土人」と言うのも仕方ないということにはならない。「土人が差別語とは知らなかった」などという言いわけに対して、私たちは呆れ果てて言葉を失う(そんなふうにポリティカル・コレクトネスが言葉を失ってしまうことを狙っての言いわけなのかもしれない)。「相手もひどいことを言っているのだから」と、相手の侮蔑語を根拠に自ら(の身内)の侮蔑語を弁解するような姿勢、そして侮蔑語の応酬により「より下へと落ちていく」ような関わりは、自らの品位を下げることにしかならない。私たちは相手がどのような発言をしようと、それに対抗する際には議論の品位を高めるような言葉を選んでいかなくてはならないのだと思う。(ちなみに私は、自由と個人の尊厳を絶対的に尊重すべきものと考えているが、日本の伝統的文化や習慣を大切に守りたいと思う保守的人間だし、ナショナリズムや自国崇拝・選民思想を決して認めないが、自国の歴史の否定的な側面から目を反らせることも他民族の人々にヘイト発言をすることもない「誇り高い」日本人であってほしいと願う国粋主義的人間である。)

3) いくらでもある例の一つ。早稲田ウィークリー「えび茶ゾーン」教授陣によるリレーコラム(2016.11.22)

 ゼミを終え、学生と帰宅途中、一人の学生が「先生、今日の晩御飯、献立決めています?」と尋ね、「先生、俺にも晩御飯作って下さいよ」と他の学生が言ってきた。ゼミが始まる前、学生たちが就職について話をしていた。「専業主夫だけは避けたいよな」「そんなことしたら親泣くよな」と冗談交じりに笑っていた。学生が「親に先生の写真見せたら『大学の先生というより小学校低学年の先生って感じね』だって」と無邪気に言い、「先生、若く見えるってことですよ。よかったですね」と他の学生が言っていた。
(中略)共通するのは、発言している学生たちに悪意は微塵もないことである。そんな中「その発言はね、とても差別的だと捉えられるのだよ。というのもね…」などと真面目に返してしまうと、「わっ、でた!フェミニスト!!」と冗談で返され、面倒くさがられるのがオチである。どう返答すれば発言の差別性に気付いてもらえるのか、正解が分からず困った顔でヘラヘラする日々。このコラムや授業を通して、意識を変える学生が増えることを祈るばかりである。

 確かに同じことをくり返し言うしかないところがあるので、ポリティカル・コレクトネスは鬱陶しく思われるかもしれない。「平和」「人権」「自由」「民主主義」などについても同様である。差別的な言辞に気づいても、そのつど指摘することには躊躇してしまうところが私たちにはある。だから私は「コラムや授業に逃げて、その現場で『差別だ』と指摘しないことは差別に加担していることなのだ」などとは言いたくない(このような言い方こそが、仲間になりうる人を敵に回してしまう)。けれども、自分が、「微塵も悪意のない」=善意の海に溺れてしまわないようには気をつけていたい。「地獄への道には善意が敷き詰められている」のだから。

コミュニケーションのススメ 日下 隼人 コラム

● 本コラムの内容は、著者 日下 隼人の個人的な意見であり、マイインフォームド・コンセントの法人としての考え、および活動に参加しておられる模擬患者さんたちのお考えとは関係ありません。

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