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No.351 コロナとACP

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 最近のNew England Journal of Medicineに掲載されたコーネル大学からの論文“Severe Covid-19 (Clinical Practice)”では、「重症者は死亡リスクが高いのでACP(Advanced Care Planning)を行い、代理人(surrogate decision makers)を決定し、ケアの最終ゴールを設定せよ」と書かれています。もし重症コロナ患者が著しく増える事態が生じても、「徹底して最後まで治療してほしい」という選択肢を選ぶことは可能でしょうか、特に高齢者にとって。「医療者は身の危険を顧みず、あんなに頑張ってくれている。彼らに感謝しよう」という異様なまでの「持ち上げ」1) が、「治療控えを望まない(徹底して治療をしてほしい)」という患者・家族に対して「医療者にこれ以上の負担をかけるな」「わがままを言うな」「他の人は治療中断に同意している」という圧力につながる可能性は小さくありません。ACPが、患者には「命をあきらめる」ことを、医療者には「命をあきらめるよう説得する」ことを迫るものとなります。もともとACPは「死への放擲」なのですから。
 「終末期に『延命装置』をつけずにおだやかな最期を迎えよう」というこれまでの「お勧め」は、肺炎のために呼吸が困難になった時にも人工呼吸器はつけない選択肢として提示されるのでしょうか。人工呼吸器を付けた後、回復が望めないと判断したら器械を外す可能性や、若い人の命を助けるために「先の短いあなたの呼吸器を外す」ことの可能性について、同意が求められていくのでしょうか。これまで「穏やかな死」を望んでいたとしても、(治る可能性のある重症感染症なのに)医師の「もう無理だろう」という判断による死を受け入れることが求められるのでしょうか(それは「穏やかな死」なのだろうか)。医師の予測と人の価値の軽重に基づく死の選別が進行する事態が来るかもしれないのです。「管につながれて死にたくない」と思っていた人の思いは今も同じでしょうか。「それとこれとは別」なのでしょうか。「事前指示書があれば、終末期ではない人の人工呼吸器も外せるという・・・・既成事実を作ってしまおうという感じが否めません」(川口有美子 現代思想「コロナと暮らし」48-10 2020)。
 治療対象の選別が必要になる可能性について、新聞に書かれています(「ICUのベッドが不足 誰を優先するか―医療のルール 事前に議論を」朝日新聞2020.6.24夕刊)。在宅医療「賛美」のテレビ番組が放送され続けます。上野千鶴子さんは「病院死より穏やかな最期 在宅ひとり死のススメ」2) と書いています(週刊朝日)。こうしたものが、ACPの露払いをしているかのようです。
 「死の自己決定権などは平時 3) の話です」と川口有美子さんは言いますが(朝日新聞2020.4.8夕刊)、コロナでこのような選別が実践されれば、コロナ後はそのような選択を行うことが「新しい平時」になる可能性のほうが高い。コロナでそのような事態に至らないで済んだとしても、「事前に議論を」という選別の思想を話し合った事実は生き続けます。患者は「治療を選ぶ主体」(という幻想)から「トリアージされる(野菜のように選別されていく)客体」という位置に「逆戻り」させられるしかないのでしょうか。それを、自らの「主体的な選択」と錯覚させられる生管理がますます進行しそうです。(2020.08.15)

1) コロナ感染症をめぐる医療者へ「感謝」の乱発は(拍手から花束まで)、汚れ仕事を他人に全面的に負わせていることへの自己免罪化です。拍手する人は安全地帯に居ます。同時に、医療者への英雄視・医療への拝跪が生まれる危険性もありますし、そのことに医療者が嬉々諾々(俗用の言葉です)としてしまう危険性もあります。(どうして、介護施設で働く人々や、生産者や流通業界で働く人や清掃業者への感謝は希薄なのだろう?)
 週刊現代が「医師や看護師を『特攻隊』にしたこの国の医療体制の貧弱さ」と書いたように、医療者は特攻隊として拍手されているのです。「今の私たちの豊かな生活は、国のために身をささげた英霊のおかげだ」「特攻隊員の犠牲があったからこそ今の平和がある」と戦死した兵士を祀り上げる人たちがいますが、そのことと医療者への拍手には共通したものが感じられます。安全な時代に生きて神社に参拝することを免罪符とすれば、心おきなく現在の生活を享受することができます(さまざまな不正行為を行うこともできます)。医療者に拍手しながら身近の医療者を差別することができるのは、同じ思考構造からです。
 戦争で命を無くしたすべての人々にひたすら詫びることしか、そのような機会に出会わずに生きている私たちにはできないのです。兵士と一般市民を問わず、この国と他国の人とを問わず、戦争を仕掛けたのがどの国であれ、「国家の名のもとに行われた戦争によって、自分のかけがえのない命を失わざるを得なかった人たちのすべてにひたすら詫びる※」「人生を不本意な形で終わらされた人たちがおられるのに、わたしたちが『のうのうと』生きてしまっていることをひたすら詫びる」ことが「死者に手を合わせる」ことの意味であると私は思います。そのようにするかぎり自らの心は平穏ではありえないのです。他人に侮蔑的な言葉を投げかけるようなこともできないでしょう。死者の「無念の思い」への慰霊は「すべての戦争死は『無駄死に』だった」というところからしかできないと私は思います(コロナに関して「医療者にひたすら詫びてくれ」などと言っているわけではありません)。
 ※ このような言い方に対して、当然にも「加害者」と「被害者」とを区別すべきだという批判があるのですが(例えば。加藤典洋の『敗戦後論』をめぐっての論争)本稿ではここまでにしておきます。

2) 上野千鶴子さんならばそのような医療を受けられるでしょう。そのような治療を受けられること自体が「特権的」なことなのです。さまざまの負担を家族や本人自身に負わせることで可能になる在宅医療が称揚され、「死なせる医療」などという言葉が公然と語られていますが、自宅に放擲される少なくない悲惨な死へのまなざしを欠いたままの在宅医療の称揚は、「差異の消費」でしかありません。

3) その平時は、世界にたくさんある「平時などは縁遠い」地域の人々の存在と「共存している」平時です。明日どうなるか、明日の食べ物が得られるかもわからない人たちにとって、ACPを語ることなどなんと「贅沢」なことでしょう。「治療を辞める」という選択も「最後まで治療を続ける」という選択も、発展途上国とは無縁の、先進国の「贅沢」なのです。ACPも、そしてインフォームドコンセントもインフォームドチョイスも「差異の享受=消費」であることを免れません。そのような意味でも「消費社会」は終焉を迎えるのでしょうか。


日下 隼人

コミュニケーションのススメ 日下 隼人 コラム

● 本コラムの内容は、著者 日下 隼人の個人的な意見であり、マイインフォームド・コンセントの法人としての考え、および活動に参加しておられる模擬患者さんたちのお考えとは関係ありません。

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