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No.344 愧じるしかない

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 医学教育学会誌「医学教育」Vol.50 No.5では「既存のカリキュラムで健康格差の『社会的決定要因(SDH)』を教える・学ぶ」という特集が組まれていました。平成28年度改訂の医学教育モデル・コアカリキュラムで「社会構造(家族、コミュニティ、地域社会、国際化)と健康・疾病との関係(健康の社会的決定要因:SDH)を概説できる」という学修目標が設定されました。「健康の社会的要因とは、健康に影響する社会的な因子、すなわち個人に起因しない構造的な要素を指す」のであり、SDHによって生じている健康状態や医療アクセスの不公平な差を健康格差と言うと書かれています。
 もう50年前以上も前のことです。全国で闘われた医学部闘争のなかで、「健康とは何か」「正常・異常とは何か」ということが問われました 1) 2)。疾病の多くは生物学的な変化によって起きます。しかし、生物学的変化が促進されるか抑制されるかが、その人の生活を含めた社会的要因によって左右されることは容易に想像がつきます。「病い」は極めて社会的なものなのです。「病気」はしばしば社会の歪の表れではないのか、「病い」の概念・「治癒」の概念・治療の方法は社会的に規定されているのではないか、「健康」「正常」はその社会に適合することを人に強いる概念ではないか、といったことが次々に問われました。当時のことですから、社会構造の分析は資本主義批判として語られだしましたが、次第にそうした枠にはとどまらなくなりました 3)。そうした問いに答えることは、ずっと私の課題でした。
 その意味では、今回の論文に親近感を抱きましたが、少しだけ「いまごろ?」という気もしてしまいました。「社会構造」はどのように分析されるのでしょうか。社会学・経済学・心理学(きっと哲学も)などの知識を踏まえることなしには、「個人に起因しない」要素が(不当にも)個人に帰されてしまう危険も少なくありません(しばしば、そのように発言する政治家がいます)。個人の努力による個人の内での解決が過剰に求められる可能性もあります(カウンセリングなどが、そのような非難を受けた時代があります)。医者は、人の生き方を枠にはめてしまう社会構造の変革に関わってくれるでしょうか(診断をするだけで治療をしないのならば医師ではありませんから)。そもそも、大学の医師は社会の支配的構造に組み込まれているからこそ大学に居られるのです(科研費などによって見えにくく管理されていますが) 4)。それなのに、学生に「構造の変革」を教えることができるでしょうか。社会資本・文化資本・経済資本が満たされていたがゆえに医師になることができ、現在も満たされている医師は、そもそもそのようなことに問題意識を感じることができるでしょうか。感じ取れなければ、教えることはできません 5)。でも、時が経ち、社会も変わってきています。私が抱いてきた思いはきっと「古く」なっているでしょうから、こうした教育がこの先どのように展開するのか、期待をこめて見ていこうと思いました。

 雑誌「小児内科」Vol.51 No.11では、「バイオサイコソーシャルモデルで行う小児科診療―小児に根差す生物・心理・社会的医療とは」という特集が組まれていました。私が小児科医になろうと思った時には、子供をとりまく環境(家庭、学校、社会、政治・行政)に関わるのは小児科医として当然のことだと思っていました。医学部に入ったころには児童精神医学を志していたのに小児科に方向転換したのは、身体の疾患にかかった子どもや家族は必ず精神的な「病」を抱えるのだから、心に配慮しながら身体の治療にあたる医師になりたいと思ったからでした。それに、私が出会った小児科医の多くもバイオサイコソーシャルに目配りしながら子どもたちと接していましたので、またまた「いまごろ?」という気持ちになりました。ただ、小児科も専門分化が進み、少なからぬ医師が研究に忙殺されつつある状況の中で、関心の重心が大きく生物学に偏っている人もいます。サイコソーシャルに目配りはするけれど、方向がずれていると感じさせられる人もいます。だからこそこのような特集に意味があると思いましたが、読んでみると、そうした人たちに対して「適切な問題提起」がされるのはもう少し先のことのように感じました。
 もちろん私はここで「自分には先見の明があった」「やっとこのようなことを言うようになったか」と言いたいわけでは全くありません。時の流れをあらためて思い知らされ、これだけの時間があったのに、私たちの考えていたことを全くと言ってよいほど伝えてこれなかった自らの不甲斐なさにあらためて愕然とし、愧じているのです。

 それにしても、どうして何もかも横文字で語られるのでしょう。横文字を使わないと新しいことが提起できない人たち、そうした言葉でないと耳を傾けない人たち。横文字の言葉はあいまいなまま受け止められ、かえってなんとなくわかった気になるという構造を変えない限り、医学教育だけでなくこの国の体質は変わらないのではないでしょうか。(No.280308でも書きました) 6) 7) 8) (2020.03)

1) 「医学は何をしているのか」「医学は本当に患者のためになっているか」「患者にとって医学とは何か」「医学研究は患者を踏み台にした実験ではないのか」「医療が人間を治しても、その人間がどのような生き方をするのかを考えなくて良いのか」「患者さんが戻っていくこの社会はそのままで良いのか」「医局講座制は患者とは無縁の医師のための制度ではないか」「教授の封建的権力はこのままでよいのか」「医者の出世を第一に考えてよいのか」「博士号は出世の道具でしかないのではないか」「教授の権力を守り、医局の秩序を維持する博士号に意味があるのか」といった問いかけがなされた。このような問いのいくつかは「一面的なものである」という誹りを免れないが、それでも今なお問われる意味を失ってもいないと思う。

2) 私は「近代医学の解体」というやたら長い文を大学祭の新聞に書いたのだが、恩師の渡辺一衛先生からその社会構成主義的な視点についての誤りを指摘され、考えを改めた。生物学としての医学についてみれば「素朴実在論」が正しいと思うが、日々の医療実践はそこには収まらない。

3) サルトル、フロム、ライヒ、ラカン、ゴフマン、フッサール、メルロ=ポンティ、アドルノ、ハーバーマス、フーコーなどといった人の本が、次々と私たちを取り囲んだ。

4) 私は、医師が政治家や革命家になるべきだと主張しているわけではない(なっても構わないけれど)。患者さんとの日々の関わりの中で、私たちの身の回りに張り巡らさせた社会構造の網に絡めとられることなく、人生に綻びが生じてしまった患者さんの生の修復のお手伝いをすることが、社会構造改革の基本ではないだろうか。2020年2月29日NHK-ETV特集「親子食堂 親も子も抱きしめる場 孤立した家族助けたい 大阪のオカンたち奮闘」は、NPOの人たちの実践を伝えていた。医師がこうした活動をしなければならないということはないが、このような実践をしている人たちのことを知り、そうした人たちと繋がりを深めていくことなしに医療は成り立ちえないはずだということをこのドキュメントで教えられた。

5) 母校の東京医科歯科大学がスーパーグローバル大学としての位置を嬉々として受け入れ、そのレール上を驀進している様を見ていると、「知と癒しの匠を創造し・・・」と理念に謳ってはいるけれど、「癒しの匠」も「社会的決定要因解決のために闘う」医師も生まれるとは思えない(それでもなお、流れからはみ出して、そのような道を歩む医師もまた少数ながら生まれ続けるのだが)。

6) カタカナ語には「未来への漠とした志向」があるそうだが(滝浦真人)、「漠とした」ものであり、いかようにも意味が取れる多義的なものであるだけに、内容がぼけてしまう。

7) 1963年、中井久夫さんは「抵抗的医師とは何か」(「日本の医者」所収 日本評論社)で、「医師の訓練の点から・・・今日では重要なのは、一つは徒弟的な修練よりも合理的な実習であり、他方には盲目的な学習よりも討論をつうじて鍛えられる思考である」と書いている。それなのに、50年以上たって日本の医学教育にBSLやチュートリアルは、外国からの輸入物として取り入れられ、黒船のように受け止められた(そして今日なお全く不十分である)。

8) コロナウィルス感染症に関する報道のなかで「リテラシー」という言葉を耳にすることが多くなったが、私はリテラシーという横文字を使う人を信じない。リテラシーという言葉の意味がわかる人にはこの言葉は必要なく、「リテラシーが必要な人」にはこの言葉がわからず、その言葉を聞いたあとの言葉もわからない。それに、リテラシーという言葉を使っている人には、自分は「正しい読解力」をもっているという「上から目線」の傲慢さがつきまとっている。


日下 隼人

コミュニケーションのススメ 日下 隼人 コラム

● 本コラムの内容は、著者 日下 隼人の個人的な意見であり、マイインフォームド・コンセントの法人としての考え、および活動に参加しておられる模擬患者さんたちのお考えとは関係ありません。

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