メインビジュアル

No.449 Shared Decision-Making はShared Process-Makingでは?

コラム目次へ

 Shared Decision-making(「共同意思決定」と訳されています)という言葉自体は、医療界で少しずつ広まってきました。
 次のように解説している文章がありました。
 「確実性が低い選択をするとき、その不確実性を共有するのがShared Decision-makingです。スタンダードな治療(医療)があるとき、Shared Decision-makingは一般的に不要です。Shared Decision-makingはどこが終着点になるのか医師にも患者にも分からないのが特徴です。(結核の)抗生剤治療を拒む保護者の姿勢は、子どもの生存の権利を大きく侵害しています。子どもの生存の権利を守るためには、抗生剤治療が否定される結論になっては決していけません。このケースで行われるべきなのは、インフォームド・コンセントです」とありました(このように説明している英文文献を踏まえているようです)。
 でも、これではインフォームド・コンセントは医療者の「押しつけ」「患者の説得」の位置に貶められてしまっています。インフォームド・コンセントとShared Decision-makingは分業なのでしょうか。

 あらためて考えてみて、なぜShareするのはDecisionだけなのかということが気になりました。医者は、「これからどうするか」といいう結論ばかりを重視してしまいがちです。そこには、その結論が結局のところ医師/医療者の思惑の方に「誘導」されるということになる危険があります。現に、「結論」が出れば「それでもう話し合いはおしまい」になってしまうことも少なくないのが現状です。
 インフォームド・コンセントだってShared Decision-makingだって、患者の「生きる権利」を守るためのもののはずですから、それに適ったものになっているかどうかというところから語られるべきです。

 優劣つけがたい選択肢の一つを選ばなければならない場合や不確実な治療を選ばなければならない場合、終着点の不明な治療を選ぶ場合、「倫理的」な課題が大きく関わっているようなことは、臨床現場では必ずしも多いわけではありません。そのようなことだけに注目していると「臨床倫理」は見失われてしまいます。
 どんなに「ささやかなこと」と思われるものであっても、どんなに確立された不動のスタンダードな治療を勧める場合でも、信頼し合っている患者さん・家族と医療者との“忌憚ない”十分な話しあいがなければ、それは倫理的ではありません。

 いつでも「一緒に考え、一緒に決める」姿勢こそが重要なのであり、Shared Decision-makingが必要か否かの線引きを医療者が判断するのでは、医療者や周囲の人の判断・思惑に左右される恣意的なものになってしまいます。インフォームド・コンセントはすべてShared Decision-makingであるべきです。
 そして、sharedとは言いますが責任は医療者の方が大きくshareすべきものです(「あなたにも半分の責任があるんですよ」では、患者側の負担のほうがずっと大きくなります)。

 Decision、つまりその人の人生の選び取りは、いつだって患者さんの状況に応じて患者さんや家族と医療者とが話し合い、みんなで手探りしながら求めていくものです。話し合いはそれまでの患者さん・家族と医療者の人間関係に応じたものになりますから、人間関係が良くなければ患者さんにとって最善の治療方針を選ぶことができません。どのようにすれば良いのか、迷うことは少なくありません。でも、信頼し合っている患者さん・家族と医療者が忌憚なく話し合って結論を出すことは、最低限倫理的に必要なことだと言えると思います。

 そう考えれば、必要なのはShared Process-Makingではないでしょうか(正しい英語かどうかはわかりません)。一緒に迷いながら、手を取り合って、手探りで、病いと闘う(つきあう)日々を積み上げていくProcessの先にしか、Decisionはありえないと思います。
 W.Oslerの〈Medicine should begin with the patient, continue with the patient, and end with the patient.〉という言葉は、100年も前にそのことを言っていたのだと感じています。
 医療が高度化し、流れ作業のようにたくさん行われる診療行為に患者が追われることになり、医師の働き方改革でますます医者と話す時間が少なくなりかねない今日、Shared Decision-makingも形式化され医療の論理に引きずり込む道具となるのではないかという不安があります。Oslerの言葉がその歯止めになると良いのですが。(2025.12)

この文章はNo.298に書いたものに加筆・修正したものです。


日下 隼人

コミュニケーションのススメ 日下 隼人 コラム

● 本コラムの内容は、著者 日下 隼人の個人的な意見であり、マイインフォームド・コンセントの法人としての考え、および活動に参加しておられる模擬患者さんたちのお考えとは関係ありません。

● コラムNo.230 までは、東京SP研究会ウェブサイトにアクセスします。