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No.300 死に方を選ぶ?(1)

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 ある雑誌で、ACP(アドバンスケアプラニング)についての説明が書かれていました。
 それにしても、またまた横文字です。カタカナ言葉には「“これまでにはなかった”ニュアンスを出したいという使い手の願望があり」、「“新しそう”で“わからない”カタカナ語の新しさが外来語の正体である」(滝浦真人「日本語リテラシー」NHK出版2016)のだとしたら、カタカナ語が使われるときそこにはかならず人を「煙に巻く」思惑が潜んでいそうだと勘繰ることも可能です。そのような「偏見」をもって説明文を読んでみたところ、私はいくつもの言葉に躓いてしまいました。

 まず、ACPとは「人生の最終段階に本人が受けたい医療・ケアについて、患者さん本人と家族、医療従事者とが話し合うプロセス」であると書かれていました。
 「患者さん本人と家族、医療従事者とが話し合う」ことは医療の基本です。それは医療の基本なのであって、最終段階に限ったことではありません。はじめて出会った時からこの基本が踏み外されていなければ、最終段階だけを特別扱いする必要はありません。それまでのところで基本が守られていないのに、最終段階だけ「話し合い」が求められるとしたら、それはご都合主義です(No298で書いた、インフォームド・コンセントとShared Decision-makingの使い分けのようです)。まあ、最終段階についてこのような話し合いをすることを通して、医療の全体にこの基本を敷衍していきたいということであれば辛うじてこの説明の意義が担保されると思いますが。

 そのあとには次のような言葉が続きます。
「本人の意に沿わない医療行為がなされるのは、・・・・」
「患者の意思決定」「本人の意思は変わる可能性があるため、話し合いは繰り返し行います」「自由回答を引き出す」
「ACPが機能するようになれば、自宅で最期を迎える人が増えるのではないでしょうか」
「さらなる多死時代 1)に、患者さんが住み慣れた地域で希望通りの最期を迎えられるようになるには」「現状では・・・・本人が望まない延命治療が行われることもある」
「患者さんが無用に苦しむことは随分なくなると思う」
「当院でも、・・・・今では結果として、最期を迎えた患者さんの多くが、点滴などの延命治療を受けていません」といった言葉が次々と出てきます。

 人生の最終段階に限らず、手厚いケアがなされることは喜ばしいことです。けれどもこの文章は、しばしば医療は「本人が望まない」「無駄な延命治療」を行うことにより、患者さんに「無用な苦しみ」を与えており、患者さんは「住み慣れた地域に留まらなければ希望通りの(良い)最期を迎えることはできない 2)」という「物語」(神話に近い)を主張しています。この文章は、医療費の抑制を目指して、できるだけ治療を抑制したい・入院医療を減らしたいという政策に、あまりにも符合しているのではないでしょうか。
 すでにこのような「洗脳」はずいぶん前から進められてきているので、「積極的な」医療は患者を苦しめる無駄な医療であり、その終末期に多額の医療費が費やされ、医療費のためにこの国は経済的に破たんするかもしれないと多くの人が思い込まされています。医者が漫然とした治療をするから、いつまでも「積極的な」治療をやめないから、そうなるのだと思われがちです。そして、極端な事例がその根拠として挙げられます。しばしば「最後の1週間の治療に何百万円もの医療費が投入された例」が事挙げされます。けれども、最終段階に「積極的治療」を行った人の全てにそのような費用がかかっているわけではありません。そのような人はわずかで、最終段階の多くの人に「積極的治療」を行っても医療費はそれほどかからないというデータもあります。最後の1週間の積極的治療をどんどん止めていけば遺された人の心に傷を残すことも比例して多くなってしまうと思いますが、そのことは語られません。
 ただ、「そんなにお金はかからない」という反論はすでに「相手の土俵」に乗っています。患者は医療経済のことなど気にかけることなく、自分の気持ちだけを主張すればよいのだと私は思います。市井の庶民が政治家になったかのように大局から語らなくてもよいのではないでしょうか。「医療費のためにこの国は経済的に破たんするかもしれない」3)という主張からは、濃厚な治療を願い下げることが「正義」ということになります。「出来るだけのことをしてほしい」という人は「非国民」であり、善良な人は「世間様に迷惑をかけたくない」という選択をするはずだという、有形無形の「圧力」がかかります。「他人に迷惑をかけない」という、子どもの時から言われ続けてきたこの国の「倫理感覚」に付け込んでいるとも言えます。外圧は内面化されていますので「自発的」意思決定のように思いこまされます(「忖度」?)。
 「無駄か否か」は生物学的なレベルで語られ、人間関係としては語られません。「もう意味がありませんよ(さっさと諦めて下さい)」と、人間関係は生物学のレベルにねじ伏せられてしまいます。「無駄な延命治療」と「無駄でない医療」との間の線引きは、いくらでも恣意的に引くことができます(「生の選別」であり、現に進行しています) 4)。目の前の胡散臭い医師の言いなりになるという呪縛から逃れようとすることが、より大きな呪縛に自発的に飛び込んでいくということになりがちです。このようにして「生管理」が進行していきます。
 「私の選択することをみんなが選ぶことで日本が滅びようと、そんなことは知ったことではない。私はこのように生きたい」という思いにこだわり続ける生き方を選ぶ権利を人は持っているし、その思いを受け止めるのが医療者だと私は思います 5)。人を早めに死なせることでしか(つまり高齢者は高度な・濃厚な医療を享けられないと宣言する)「生き延びられない」国はほんとうに存在する価値があるのか、というような意味のことをかつて松田道雄さんが書いていました。「高齢者の治療は控える」ことが「若い人を大切にする」ことと引き換えになるのでしょうか。若い人にも同じような論理が適用されているのが、今日のこの国の姿ではないでしょうか。ここでも恣意的な線引きがいくらでもできそうです。「医療介護・福祉関係の予算が重荷になっている」ということは、この国の人間が(地球に住む人間が)これからどのような国の姿を選択するのかということ抜きには語りえないことだと思います 6)

 「生きることを無条件で肯定する。そしてどんなに生きづらくとも、とにかく生き続けてみる。そのような人を認めて分配する社会を、みんなが信じれば、そうなります。ただ存在することがこれかこらは『運動』になるのです」(川口有美子・雨宮処凛「死なせないための、女子会」現代思想vol.47-7) 
 これは、ただの「わがまま」でも「自己中」でもありません。病気になった人は、もっと「我を忘れて」「取り乱して」良いのです。病気になるということは「自己中」になっても仕方ないことだし、それは人間の権利です。「賢い患者」「良い患者」になどならなくて良いではないですか。人生の最後くらい「自己中」で良いではないですか(それでも「他者中」の人が受ける医療と、たいして違いはないのです)。
 「難しそうな」論理を展開する言葉を操ることができ、他人に教説を垂れる人間が存在しているということは、多くの人から自らの言葉を紡ぐ力が奪われているということです。自らの言葉を紡ぐことができなければ「自己中」の声を上げることはできず、結局その人たちは「割を食う」存在に留めおかれることになります。言葉が奪われたまま「自発的意思決定」として神話に従わされます。生まれてこのかた規範づくめで生かされてきた人生が、「人生の最後くらいは自分で決めたい」という言葉を盾に、最期の場面でも内面化された規範に支配されつつあります(その規範に従わない場合には、世間からの「非難」の目という「懲罰」に囲まれます)。「自己中」に徹する患者さんと医療者との間でしか生まれない話し合い・おつきあいがあるはずです。それぐらいの自己主張をして、はじめて患者と医療者とは少し対等に近づけるのではないでしょうか。(2018.06)

1) 「多死時代」「多死社会」という言葉のデリカシーの無さに鈍感なところで医療が語られていること自体がとても危ういことだと思います。

2) 「人生の最期を自宅で迎えたいか?」と尋ねられれば、yesと言う人は多いかもしれません。でも、Yesと言わない人が、変わっている人だということも不幸な人だということもありません。それが可能な家ばかりではありません(家の造り、人間関係、病気の種類や状態などさまざまな要素が関わります)。それに、重い病気を抱えている人の自宅でのケアの負担は家族にかかります。自宅で患者さんを見続けていることは不安でもあります。訪問診療が、そのすべてに対応できるわけではありません。
 このように問いかけること自体が、人びとの思考を誘導しているのです。

3) 医者も医療も胡散臭いという思いがあり(それ自体は正しい)、そこに医療費の問題が便乗して、「無効な医療・無益な医療の排除」というそれなりに適切な視点と、「反医療」「医療拒否」とが患者さんの中で同一視される傾向が生まれてきています。そこで問われるのは医学情報の読解力なのですが、現時点では「説得コミュニケーション」と「反知性主義」とのせめぎ合いという不幸な事態が生まれているようです。

4) 終末期の患者にもどんどん治療を「してしまう」医師は、この恣意的な線引きに対する「抵抗」にはなっていると考えることもできます、本人は意識していないかもしれませんが。

5) いまだ存在しない未来の他者に対する責任から現在生きる私たちのとるべき行動を考えようとするハンス・ヨナスの倫理学の問いが重要であることは確かです。ただ、その問いは個々の事例に対する「個別的命令」ではなく、「存在論的命令」だということです。(戸谷洋志「ハンス・ヨナスを読む」堀之内出版2018)

6) 2018年5月NHK・BSで放送されたアナザーストーリーズ「ベトナム戦争 写真の中の少女」は、ナパーム弾で火傷を負い裸で逃げる少女の写真がアメリカ政府の隠し続けていたウソを暴き、反戦のうねりを決定づける運命の分岐点になったことの記録でした。この番組は、「政府は嘘をつく」という言葉を何度も繰り返して終わりました。この「政府」というのは、大統領や首相、現在の政権という意味に限られることではないでしょう。大所高所からの大きな声は、どんなものでも疑ってかかるほうが良いということだと思います。
 「洗脳」に使われている大前提は不動のものなのでしょうか。データは都合よく使われるものなのです。そもそも、国は成長し続けなければならないのでしょうか。人口が減り経済活動が穏やかになっていく方が、良い国になるということはないのでしょうか。ロジスティック曲線が飽和点に達した(そして、下降相に入った)国として、誇り高い国の姿を考えることは空想に過ぎないのでしょうか。そのような視点から、国のお金の使い方を考え直してみると、また事態は違って見えてくると思います。
 「自分でもよく分かっていない言葉を振り回して、自分や他人を煙に巻いてはならない。出来合いの言葉、中身のない常套句で迷いを手っ取り早くやりすごして、思考を停止してはならない。」(古田徹也「言葉の魂の哲学」講談社2018)

コミュニケーションのススメ 日下 隼人 コラム

● 本コラムの内容は、著者 日下 隼人の個人的な意見であり、マイインフォームド・コンセントの法人としての考え、および活動に参加しておられる模擬患者さんたちのお考えとは関係ありません。

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